初めての田中家1
一朗君の家までは徒歩15分くらいで、嫌でなければ歩きながら地元を案内すると言われた。嫌どころか楽しそうだからお願いした。
昔、よく遊んだ公園。幼馴染の親が営む、たまに友人と食べに行くラーメン屋。小学校の時から仲良しの犬。
こういうことは、一緒にこの辺りを歩かなければ、聞くことがなかった話だろう。
「ここが俺の家で、あそこが威生の家」
あそことは、斜め向かい側の一軒家。近いと聞いていたけど、こんなに近いとは。
一朗君の家も一軒家で、この辺りの家は全部似た形だ。
田中家の駐車場には黒くて大きな車が停まっているけど、彼の自転車は見当たらない。どこか別の場所に置いているようだ。
「橋本さん、いるのかな。威生に電話してみよう」
美由からLetl.はもう返ってきてて、小百合と三人でもトークできたけど、今の美由がどうなっているか気になる。
楽しそうだから彼氏が欲しい。はじまりはそれだったのに、彼女は今はもう、日野原君を意識している。
だから、"海鳴生は賢いから、好きな人ができたら応援する"と言われて悲しくて腹が立って、喧嘩になった。
美由は私たちにそう言い、日野原君に気持ちをきちんと伝えられたから、仲直りしたと教えてくれた。
今頃きっと、彼女はこの日野原家で、家族に挨拶をしたり頑張っているはず。
一朗君は電話したけど、応答はなかった。
頼まれたし、私も気になるので美由に電話をしたら、わりとすぐに出てくれた。
「もしもし、琴ちゃん。どうしたの?」
美由はヒソヒソ声だ。
「これから一朗君のお家でランチで、日野原君の家の前に来たから大丈夫か気になって」
「ありがとう。区切りがいいから、勉強は終わりにして、ご飯をご馳走になるところだからまた。あっ、うん。あのね、琴ちゃんは今、家の前なんだって」
「もしもし琴音ちゃん? 勝手に参加して、居ないうちに出て行ってごめんね」
電話の向こうの声が日野原君に変わった。一朗君にも聞こえると良さそうなので、スピーカーモードに変更する。
「一朗から着信があったんだけど、同じ理由? 俺らの心配?」
「いや、橋本さんの心配だけ。おばさんたちがいるから大丈夫だろうけど、ちゃんと、真面目に勉強だけしろよ」
「美由ちゃんは教え上手で可愛いから勉強最高。教えると覚えるし、サボらなくていいなって言ってくれたんだけど、可愛いすぎない? 俺、日野原君から威生君に進化したんだ。一日、一回だけ」
「良かったな」
「本彼女まで百歩あるとしたら、数歩進んだって。可愛いんだけど」
「良かったな」
「胸がぎゃーんってなって、触るのとか無理だ。可愛いの極みで困る。本彼女まであと九十九歩、何をしたらいいのかなぁ〜」
日野原君は、息を吸うように美由を褒める。
もしも一朗君がこうだったら嬉しいけど、恥ずかしくて何も言えなくなるから、今、美由は黙り込んでいるのだろう。
一朗君がこんな風に喋ることは、まるで想像できない。
「腹減りだからじゃあな。親父が張り切って寿司にしてくれるって。手巻き寿司! ひゃっほー!」
ブツっと通話が切れた。
「橋本さんはこのハイテンションバカで大丈夫だと思う?」
「今のところ、楽しいみたいだから多分。こんなに可愛いって言われたら嬉しいと思う」
すると、一朗君は照れ仕草をしながら、小さな声で「琴音ちゃんも可愛い……です」と言ってくれた。
「……一朗君も格好いいです」
「そうなの? 俺、ゴミ拾いとかだけじゃなくて、見た目もセーフだったのか。そっかぁ……。まあ、たまにモ……ごほんっ。行こうか」
「たまにもって何?」
「なんでもないって」
「なんでもなくないよ」
一朗君は気まずそうに視線を彷徨わせて、「たまにモテるし……という自惚れ発言をしようとしました……」と小さな声を出した。
「威生だから! あいつが目立つから、俺はおこぼれ。別にモテなくて良かったし。興味の無い女子なんて面倒なだけ……。あー……」
私が"興味のない女子"だったらどうなっていたのだろうと悲しくなった。一朗君はとても気まずそう。
「ごめん、しつこく聞いて」
「聞いていいから。えっとあの、何で怒ってるの? 勝手に好かれるのはどうしようもないし……。昔のことで、別に誰とも何もしてないし……」
怒ったと思われたことに驚く。
「怒ってないよ」
「……そうなんだ。えっと、じゃあ、何?」
「私も興味のない女子側だったら、悲しかったなと……」
「それは俺もそうだよ。いつ話しかけようって、いつもあと一歩が踏み出せなくて、手紙も無理で、そうしたら俺の名前を言ったから……あれさ、俺、死ぬかと思った」
一朗君は空を見上げて髪をくしゃっと掴んだ。
「手紙? そうなの? まだある? 読みたいかも」
「俺のいくじなしって破ったからない。そもそもさ、あの時、何で俺の名前を橋本さんたちに言ったの?」
「あれは……。気になる人ができたことと……盗み聞きをして名前を知りましたって報告……」
「……。分かった名前は、田中一朗君ですってこと」
「……うん、そう」
「俺と同じ名前の入手方法。あれがなかったら俺、合同遠足の突撃タイムまで何もできなかったと思う」
「わ、私も。偶然って凄いね」
「……運命的な? なーんて」
うわぁ、そんなこと言ってくれるんだと喜んでいたら、一朗君はそそくさと歩き出した。
「行こう。お腹減った」
私が一朗君を気にかけ始めたのは去年の秋の終わり。彼はその前の、聖廉の文化祭で私を見つけてくれていた。
一方的に好きになって、どうしたら知り合えるのだろうって考えていたのに、そんな自分よりも前から一朗君は同じことを考えていた。やっぱり、そんなの奇跡だと思う。
(運命だって。ふふっ)
つい、ニマニマしてしまう。
緊張しながら家に入ると、一朗君が「ただいまー。相澤さんが来てくれた」と大きめの声を出した。
すると、廊下の向こうの扉が開いて、ひょこっと女子が顔を出して、あっという間に前まできた。
「げっ、ラン。なんでいるんだよ」
同い年くらいの女子なので、バレー部の妹、ランだろうなと思ったらそうだった。
丸顔の私と違って、運動部員らしくほっそりした顔で、短い髪がよく似合っている。
「遅いよ一朗! 部活の休憩時間が終わっちゃうじゃない! さてはあんた、私に彼女を見せたくないから遅刻したんでしょう!」
ランは腰に手を当てて仁王立ちした。バレー部員にしては小柄だけど、威圧感はあるので、さすが運動部といったところ。
「ランがいるなんて知らないし、お昼頃に帰るってだけで、時間は決めてなかったから」
「初めまして琴音ちゃん。私、一朗の妹のランです。こいつが全然話さないから、聖廉の白瀬さんからちょっと聞きました。琴を弾く部活で、中学から聖廉のお嬢様だって」
白瀬さんは私と同じクラスになったことはないから、変な話はしてないはず……だよね?
私の噂なんて特にないだろうし、私は市船と練習試合をするための架け橋になった。小百合と仲良しそうだし、優しそうな白瀬さんは悪口なんてきっと言わない。
「初めまして、相澤琴音と申します。お会いできて嬉しいです」
同い年だから、気さくに話しかけるべきだったかな。
「写真も可愛かったけど、実物も可愛い。モテるのになんで本物海鳴生じゃなくて、うちのバカ偽物なんですか? お嬢様からすると、珍獣で面白いから?」
「……あの、可愛いとはありがとうございます。田中君は普通の海鳴生さんです。珍獣って、どんなところですか?」
「ちょっと、ラン! 早く上がってもらいなさい! お母さんたちも挨拶をしたいんだから」
ランの背後、扉のところに大人の女性がいて、そう声を掛けた。
あれがきっと一朗君のお母さん。すらっとした美人で、ハキハキしてそうなので、母と似た系統な気がする。
靴を揃えながら、手土産がないと気づく。一朗君の祖父に「皆さんで」と全部渡してしまった。
てっきり、『ひくらし』で挨拶会だと思っていて。
扉の向こうはリビングで、大家族のイメージと異なり、綺麗に片付いていて物が少なかった。
我が家はごちゃごちゃした和風の家だけど、ここはスッキリした洋風のお家。
L字型のソファーに案内され、緊張しながら座ると、一朗君のお母さんは私たちにお茶を運んでくれた。
一朗君は向かい側にある、背もたれのない長椅子に着席した。私の斜め向かい側だ。その隣に、ニコニコ笑うランが腰掛ける。
「よく来てくれましたね。一朗の母です」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます。本日は『ひくらし』さんにもお世話になっています。母から預かった手土産は、おじい様へお渡ししたので、あとで皆さんで楽しんで下さい」
立とうとしたけど、スペースが足りなくて無理で諦めた。座ったままでの挨拶になってしまった。
「……ラン、あんたとえらい違いだわ。はぁ……。聖廉って本当にお嬢様学校なんですね。うちのバカ息子の彼女なんて、珍獣コレクター的なことですか? 息子が土下座したって聞いていますけど」
しげしげと観察する目が、一朗君と私を見比べる。娘が「珍獣」と言い、母もそう言うとは、彼には私の知らない変わった一面があるのだろうか。
「ど、土下座なんてされていません。どちらからの情報ですか?」
「母さん、変な話はするなって言ったよな? やめろ。ハナたちは?」
「カツジさんのところ。あんたがうるさいのは嫌だ、私とお父さんだけって頼んだんでしょう」
「なのにランがいるから、あいつらもいるかと思ったんだ」
一朗君は私の向かい側でかなり不機嫌顔になっている。ハナたちとは、他の妹たちのことだろう。会えると思っていたので、いなくて残念だ。
「ランは勝手に帰ってきたのよ。ラン。そろそろ部活じゃないの?」
「やばっ。もっと話したかったのに一朗のバーカ! じゃあね、琴音ちゃん! 一朗に、お嬢様にベタベタ手を出したら社会的に殺されるよって言ってあるから安心して!」
バイバイと手を振られたので、手を振り返す。
「手の振り方まで違くて、うちの娘が恥ずかしくなってくるわ」
「なら躾けろ」
一朗君は相変わらず不貞腐れ顔をしている。昨日は私の家族の前で好青年だったのに。こんな一面もあるのか。
「照れてそんな怖い顔をしているとフラれるわよ。琴音ちゃん、お口に合うか分からないけど、お昼はグラタンにしました。好きだって聞いて」
確かに私はグラタン好きだけど、特に海鮮グラタンが大好きだけど、一朗君に教えたことはなかったと思う。
「お気遣いありがとうございます。何かお手伝いしましょうか」
「ありがとう。くつろいでてちょうだい」
一朗君にコソッと確認したら、私の友人たちに好きな食べ物をリサーチしたと教えてくれた。そうなんだ。私に聞いてくれたらいいのに。
ふと見たら、階段のところに大人の男性がいて、子供がするみたいに、壁の向こうからこちらをうかがっていた。
「親父、そこで何してるんだ?」
「いや、思っていた以上のお嬢様が来て緊張して」
「やめろやめろ。ちゃんと出てきて普通にきちんと挨拶をしてくれ」
立ち上がった一朗君が、お父さんの手を掴んで連れてきた。
彼より少し背が低い、彼が年を取ったらこうなりそうな、顔立ちが似ているお父さんだった。
ただ、ピシッとしている一朗君とは違って柔らかな印象。この後、仕事なのかスーツ姿だ。
「あはは、変なところを見せてしまいました。一朗の父です」
「初めましてお父様、相澤琴音と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
今度はタイミングよく立てた。
「……お父様だって。可愛いな。明日からうちの嫁になりますか?」
緊張を和らげようと冗談を言ってくれるとは、息子と同じく優しい。
「ふっざけんな! もう帰れ!」
突然、一朗君が怒鳴ったので驚く。これは……昨日の私みたいだ。ここまでツンツンしてなかった……してたかもしれないから反省しよう。
「ここは俺の家なのにどこへ帰るんだよ。照れるな照れるな」
「触んな!」
頭を撫でられた一朗君はますます怒った。
「あんた、なんでスーツなの? それ、行事用でしょう?」
「今日は行事だろう。息子が初めて彼女を連れてきたんだから」
「お祝いのようだとは、ありがとうございます。昨日は母や祖母もそのような感じで、田中君に着物を着せたり、外食へ連れ出したり、夜遅くまで引き留めたり、ご迷惑をおかけしました」
「着物? 一朗、あんた、そんなこともあったの? ちゃんと言いなさいよ」
「預かってきた手紙に書いてなかった?」
「私の母は、田中君に手紙なんて渡していたんですか?」
「ああ、うん。うちの親宛で。明日は娘がお世話になるから、迎えに行く時間とかを書きましたって」
あの母は、何を書いたんだか。手土産を渡していたので、手紙を渡したのはあの時だろう。
「そうそう、昨日はうちの息子を送っていただいたから、今日は夫が送りますね。お母さんにそうお伝え下さい」
「いえ。お気遣いなく。船川駅までは送っていただけると助かります」
「昨日、相澤さんの弟君がLetlを教えてくれたから、家の近くまで送っていいか聞いてみる」
律はいつ、一朗君の連絡先を手に入れたの? と驚いて、撮影会の時だと思い至る。
この感じだと、母や祖母は彼の連絡先を聞いたりしなかったみたい。
「そうなの、よろしく一朗」
「琴音ちゃん、立ち話もなんだからどうぞどうぞ。息子がどう土下座したか教えてください」
「土下座なんてしてねぇ! 帰れ!」
「それならなんて告白したんですかー? 吐け、このやろう。あっ、あはは。我が家はこんな感じです」
一朗君は突然、父親に羽交締めにされて、すぐに脱出した。顔がものすごく怒っていて怖い。
「楽しそうな家でいいけど、田中君、その顔は怖いですよ」
顔を両手で隠すと、一朗君はうつむいて「ごめん」と謝った。
「でも相澤さんも昨日、わりとツンツンしてたから同じです」
「そんなには、ツンツンしていません」
「してましたー」
一朗君は顔から手をどかして私を見て、ニッコリと楽しそうに笑い、父親のニヤニヤ笑いを見て、死んだ目になった。
「親父、その顔を止めろ」
「ツンツンするな、フラれるぞ。琴音ちゃん、立たせてしまってごめんな。座って、座って」
促されたので再び座ると、一朗君も着席して、両親に「あんたは手伝いなさい」と怒られた。
昨日とは別の意味で緊張するけど、彼の知らない面を見られて、とてもワクワクする。




