一歩
勇気を出して「好き」と言った翌日の放課後も受験室を取れなかったので、昨日と同じくそれぞれ家で勉強のはずが、駅で解散にはならなかった。
駅に着くくらいの時に「昨日の今日だから少し一緒にいたいんだけど」と照れくさそうな表情で誘われたからだ。
一朗君は今朝も帰り道も、昨日の私の言葉が心に響いていない様子でずっと落ち着いていたので驚いたし、寂しい気持ちもあった分、とても嬉しかった。
「天気がいいし散歩とか。勉強の邪魔はしたくないけど、少しだけ付き合ってくれたら嬉しい。どうかな」
こんなの二つ返事で了承だ。
「行きたいです」と答えたら、このままでは重いから荷物をロッカーに預けて身軽な状態で行こうと提案された。
「あっちの大きい方の公園はどうかな。途中で飲み物でも買って」
「楽しそうですね」
教科書などをロッカーにしまおうとしたら、カバン自体が邪魔ではないかと指摘された。
しかし、持っていきたいものをすべてポケットに入れることはできない。
「そんなにある? 必要なのはスマホとICカードくらいだよね?」
「あっ、お財布は要らないですね」
母が「お金の有り難みを噛み締めなさい」と言って現金払いを推奨するから私はたまに電子決済の存在を忘れてしまう。
「時代に逆行している」「スマートに払えなくて迷惑をかける」と言ったことがあるが、現金で要領良く支払いが出来るように工夫したら、それは他のことに繋がると説明された。
母は時折り、そのように独自ルールを娘に貸すと一朗君に教えながら、ハンカチなどが入ったポーチと、学校用のメイク道具が入ったポーチを見せて、これもあるからやっぱりカバンは必要だと伝えた。
「これは何が入ってるの?」
「こっちはハンカチとか。ウェットティッシュも使うでしょう? こっちはリップとか日焼け止めです」
もっと入っているけど省略した。
「ハンカチはポケットに入るよ。日焼け止めもリップも今塗っておけばいいし、ウェットティッシュはお店で貰おう」
「……他にもあるんだけど、一朗君は私がカバンを持っていくのが嫌なの? なんでですか?」
聖廉のカバンはレトロなデザインだから重そうに見えるので、心配してくれたのだろうか。
「大丈夫、軽いよ」と試しにカバンを持ってもらおうとしたら、一朗君はあからさまに目を逸らした。
「……。いえ、手をあけていただけると大変助かります」
最近の一朗君は私にタメ口なのにいきなり敬語だし明らかに挙動不審だ。
「なんで私の手があくと一朗君が助かるんですか?」
「……いえ、やっぱりいいです。持ってきて下さい。好きなものを、必要だと思うものを全部持ってきて大丈夫です」
苦笑いを向けられたけど、どう見ても良くなさそうだ。
「うん」と返事をして、日焼け止めを塗った後にスマホとハンカチ、それからICカードだけを持ってロッカーを閉めて、ささっと鍵をかけた。
「……あっ。カバン。いいの?」
「これでカバンはないですよ。なぜか教えて下さい」
すると一朗君の様子はさらに変になった。
「人が多いからとりあえず行こう」
スマホとハンカチをスカートのポケットに入れて、難しそうな顔をしている一朗君の隣を歩く。
駅から出ると、登下校の時のようにさり気なく車道側に立ってくれた。
彼が何も喋らないから私も何も言わずについていく。この方向には大きい公園があることは知っている。
一朗君が何を考えているか分からないけど、昨日と同じでおそらく私にとって悪いことではないだろう。
不安になっては良いことばかりだし、昨日の今日だから自信があって前向きな気持ちでいられる。
昨日の「好き」に「好き」って返してくれたらうんと嬉しいけど、カバンが邪魔な理由は推測できないまま。
「大通りだからコンビニくらいあるかな」
ようやく口を開いた一朗君は、わりと普段通りだ。
「調べてみましょうか」
「あっ、ある。あそこにあるみたい」
「どこ?」と聞いて教えてもらったけどイマイチ分からなかった。
「目がいいんですね」
「うん。両目とも2.0かそれ以上」
「田中民族」と言って弓を放つような動きをして少しおどけた一朗君がやたら可愛く見える。
こんな風に感じるということは、前よりも好きだからだと意識したら、かなり恥ずかしくなってしまった。
「なんで一人で地上潜水記録に挑戦してるの? 息は吸った方がいいよ」
「……そんなことはしてないよ。潜水は水に潜ることだから地上では出来ません」
なぜかツボに入ったので吹き出して、しばらく笑い続けた。
「琴音ちゃんって面白くないところで笑うよな」
「そうかな」
「うん。俺がなーんにも考えないで雑に喋った時によく笑う。最近、それに気がついてちょっと気楽」
コンビニに入って飲み物を購入して、しばらく歩いたら公園に着いた。
「公園だから歩いていたらベンチくらいあるかな」
「こっち」と言われた時にさり気なく手を取られたので衝撃を受けた。
怪我をしていない左手で、さらっと私の右手を取ることができたのは、ついさっき歩く位置が変わったから。
「カバンは置いていったら」という言葉も、少々不自然だった位置の変更もこのためだったんだ。
態度がおかしかったのも、急な敬語も緊張していたということで、これは計画的な行動だ。
心臓が口から飛び出しそうだけど、手は離したくないから力を入れてみた。
わざとというよりは自然とそうしていた。
不意に一朗君は足を止めて振り返ったのでパチリと目が合う。
「わぁあああっ! あのっ、無理。恥ずかしいから見ないで下さい。私、顔がすぐに赤くなるから」
左手と腕で顔を隠してみたけど、きちんと隠れているだろうか。
「……そっか。分かった」
一朗君が歩き出したのでホッとしてついて行ったけど、ゆっくりと手を離されてしまった。
もしかして「無理」が見られて恥ずかしいではなく、手繋ぎにもかかってしまったのではと慌てる。
それは嫌だし、逆の立場なら辛いと考えて、えいっと彼の手を捕まえた。
思い切りが足りなくて、手繋ぎではなくて指をいくつか掴んだという状態になった。
歩みを止めた一朗君がまた振り返ろうとしたので、思わず「見ないで」と叫んだ。
「本当に変だから。……手は……このままでお願い……します」
「うん」
胸というか体の中心、リンゴなら芯のところがぎゅーっと締めつけられているし、心臓の音はかつてない程だ。
「わた、私、察しが悪くて……」
「ちゃんと教えて下さいって言ってたけどさ、こんな理由でした」
一朗君の声は小さくて、少し震えている気がした。
私が指を掴んでいる状態だったのが、あっと思った時には手繋ぎに変化。
お互いろくに喋れないまま公園をぷらぷら歩き、全然会話しないまま公園を出て、どちらともなく手を離して無言で来た道を戻った。
錦町駅に着いてロッカーから荷物を出している時に一朗君が「あっ、飲み物」と言い、袋から出したペットボトルを私の頬にくっつけた。
「わっ。ひゃっ」
「あはは、驚いてる。はい、どうぞ」
「ありがとう」
「琴音さん、校則。敬語を忘れていますよ」
「それ、小百合さんの真似ですか?」
「似てる?」
「全然似てないよ」
二人で肩を揺らして笑い合う。さっきまで手を繋いで照れて全く喋れなかった私たちはどこかへ幻のように消滅している。
あれは夢だった気がしてくるけど、動悸みたいなドキドキがこれは現実だと告げている。
「よし、じゃあ解散。帰って勉強を頑張ろう」
「……そうですね」
もう少し一緒にいたいし、なんならもう一回公園に行って手を繋いで欲しいけど帰るのか。
0時を迎えたシンデレラはこんな気分だっただろう。
「……」
「……」
私が動かないからか、一朗君もためらいがちで改札へ向かおうとしない。
「……使いづらくない?」
不意にシュシュを触られて、髪を撫でられたようになったから、落ち着いていない心臓がますます暴れ出す。
まだ音が大きくなる余力があったんだと驚きながら、なんとか小さく頷いた。
「リハビリもあるし帰らないと。帰りたくないけど。行こうか」
「リハビリの日だったんだ。ごめん」
「まだ遅刻してないのになんで謝るの? 何も悪くないときに謝ることが多いよね」
「そうかな? 今は足止めしていたと思う」
「……それは嬉しいことだから謝る必要はアリマセン」
さっきまでは飄々として見えたのに、今は私と目を合わせないでカタコトで敬語だったから「同じだ」と嬉しくなる。
この日はずっとドキドキがおさまらなかった。
電車に乗っていたら一朗からLetlがきた。
田中一朗【我慢できなくて挑戦したらダメじゃなかった】
【なんの話だ?】
田中一朗【例の手のこと】
田中一朗【死ぬ】
田中一朗【病院後に颯と会いたい】
田中一朗【勉強しろって殴って欲しい】
田中一朗【あっ、俺の家に泊まる?】
ぽんぽんトークがくるなと画面を眺めていたら初めての誘いをされて驚いた。
【なんか流れで高松の家に行くから無理】
田中一朗【はああああ? 最高な展開?】
【高松と佐島さんが先生募集って校門前にいた】
田中一朗【幸運を祈る】
【俺こそ助けてくれ】
【無理】
【英語は一朗が教えるって言うから来てくれ】
【俺こそ助けてくれ】
田中一朗【じゃあ病院後に行く】
こうして、俺は助っ人を手に入れた。




