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50:旅立ちの日


「実感がわかない」と言う思いを格好良く誤魔化したら『感慨深い』になるんだろうか。


日の出よりも少しだけ早い時間、木々すらもまだ寝静まった薄明るい早朝。

ぼんやりと見回した部屋の中は思っていた以上に広くて、とても殺風景に見える。

と言っても、今身を預けているベッドも、机も椅子も衣装棚も全て最初から備え付けのものだ。部屋の中にちゃんと家具はある。

ただ私物がないだけで、部屋と言うのはこんなにも生活の色を失くしてしまうものらしい。


私のものが片付いたのは昨日の夜になってからで、実家が遠い子たちなんかはもっと前から少しずつ寮を出る準備を進めていたそうだ。

そうは言っても長期の寮生活。何度か部屋・階移動もあったし、あまりかさばるものは置かないと言うのが暗黙の了解。私の荷物もそう大きくはならなかったし、人が暮らすのに必要になるいくらかの私物。せいぜいそんなものだ。

その荷物を出して掃除をして、部屋を『綺麗』にしたら……広くて、冷たくて、切なくなった。


「あー……最後、なんだな」


ぽつりと呟いたはずの声も、部屋に響き渡っていく。

最後だ。六年通いなれた生活が、もうすぐ終わる。あの太陽が真上に昇る頃には、この部屋から私とモニカの名前は消えるのだ。

清掃の専門の人が来て、きっちりと掃除して、次の院生がこの部屋に入る。今までもずっと続いてきた、私も受け入れて来た流れなのに、ほんの数時間後のことが想像できないって言うのも不思議な感覚だ。


視線を上に向ければ、壁にかかった薄紫色のジャケット。

その下には中に着る白ブラウスと、上級生になって長く仕立て直した黒スカートがかかっていて、机の上には中身のほぼない鞄と制服に合わせる赤スカーフが置いてある。

あの装いを着られるのも今日が最後。六年間ほとんどの日に着ていた正装が、明日からはもう着られなくなる。


「………へんなの」


ごろんと横になって、目を閉じる。

私は今日、この学院を卒業する。


(実感なんて、わくわけがない)


毎日忙しくて、やることも沢山あって、そんな中で大好きな人と色んな思い出を育んで……気が付いたら今日だった。心の余裕とかは、きっと何日か経ったら出来るだろう、多分。


枕元に手を伸ばせば、上質な四つ折りの便箋が置いてある。

男性らしい硬い筆跡でしたためられたそれは、私の大好きな人からの手紙。

私の体調を伺う話、あちらで彼がしている仕事の話、今後の予定についての話。最後は『卒業式までには必ずそっちに帰る』とまとめられたソレが届いたのは、すでに七日も前のことだ。


(ギルに一ヶ月以上も会ってないから、こんなにぼんやりしてるのかもしれない)


恋人に責任転嫁はどうかと思うけど、まあ仕方ない。彼と出会って以降、どんなに忙しくなろうとも私の一番はギルベルト・クラルヴァインだったのだから。

彼が、私をそう扱ってくれたように。


「当日になっちゃいましたよ、ギル……」


誰も聞いちゃいない愚痴をこぼして、かけ布団をかぶり直す。よく考えたら、このベッドとも今日でお別れなんだ。予定の時間…だいたいあと二時間ぐらいは堪能して寝ておこう。

目が覚めたら、夢じゃない彼に逢えることを願って。



*  *  *



視界一面に広がる青。空は見渡す限りどこまでも晴れ渡り、雲一つない。


「学院の卒業式って快晴になるように何か仕掛けてあるのかしら…」


そう疑ってしまうぐらいに、ここまでの卒業式も全て素晴らしく良い天気だった。

そりゃ新しい門出なんだから雨よりは晴れの方が断然いいけど、ここまで快晴が続くのも何かありそうだ。魔術師を育成してる学院だし。

正門前の広場には、今年も親族をはじめ魔術協会やそう言う仕事をしていそうな人たちがすでに集まっている。かつての卒業式とは当然比べるまでもないけど、それでも今年もなかなかの人数が出待ち準備中みたいだ。式自体がこれからなのにね。


そうそう、私たちの学年もかつては三クラスあったのだけど、今日の卒業式を迎えるのは結局一クラス分だけだ。成長限界だったり家の都合だったり、様々な理由で同級生たちは減っていき、六年生にたどり着いたのは三十名弱。毎年不思議に見送っていたけれど、自分がここにきてようやくその意味がわかった。

そして、その卒業生の中に私が残っているって言うのが、我ながら奇跡的だ。


「おはようメリル。ちゃんと起きられたみたいね」


「おはよモニカ。そっちも元気そうで何より」


背中からの声に振り返れば、亜麻色のふわふわ髪に大きめの眼鏡をかけた私の親友が笑っていた。モニカも実家の都合でこの所ずっと寮には帰って来ていなかった。会えたのは五日ぶりぐらいだろうか。


「ねえ、また痩せたんじゃない?」


そっと手に触れてみれば、前よりも少し骨ばったような気がする。昔はちょっとぽっちゃり気味だった彼女だけど、学年を上がるにつれてどんどん痩せて、すっかり痩身美人が板についてきている。


「ちょっと忙しかったから多少はね。ま、昔みたいな体型になるよりは全然いいけど」


「痩せ過ぎはよくないよ。無理しないでちゃんと食べてよ?」


「ずっとほっそいメリル言われてもねぇ」


触れた手を握り返されて、もう片方の手でふにふにと頬をつつかれる。うぅ、私が細いのは胸だけだよ……


「でも、卒業式に間に合って良かったわ。欠席も覚悟してたけど、やっぱり最後は綺麗に終わりたいもんね」


「大変だったんだ…お疲れ様、モニカ」


「ありがと。アンタは今日から大変かもしれないけどね」


「……うん?」


握った手をぶんぶんと振り回して、眼鏡の奥が楽しそうに笑う。私なんて、今日まで雑用を手伝いながら自覚もなくのんびり過ごして来ただけだ。

卒業論文も普通に受理されて終わりだったし、忙しくなる要素なんてないんだけど……?


「お楽しみよ。さ、行きましょう」


親友は鼻歌でも歌いだしそうに、足取り軽く式場へ向かっていく。何があるかわからないけど、まあ久々に会えたモニカが楽しそうだから良しとしよう。


そうして向かった年に一度用があるかないかの講堂には、いつか見た特別な装飾が施され、始まる前から厳粛な空気が流れている。

……ああ、ついに卒業式。私たちの六年間が、静かに幕を下ろす。

これで、最後。





*  *  *



「て言っても、なんかこう、大して何もなかったわね」


「……まあ、そーだよね」


式典ってのは、あの空気の重さを楽しむのがメインだ。学院の偉い人とか来賓の人とか、祝ってくれてはいるのだろうけど、どこかで聞いたような挨拶には感動も何もなかった。

そうして特に何ごともなく、淡々とただ淡々と式は進み、終わってしまった。


「ま、ますます実感わかなくなってきたわ……」


「今寮へ戻れば喪失感と言う名の実感は得られると思うわよ? 具体的には、あたしたちの部屋もうないから」


「そういう実感はちょっと」


忘れ物はなかったはずだし、これ以上悲しい方向の気持ちはいらないだろう。周りを見回せば、滝のような涙を流して号泣するクラスメイトもちらほら見受けられる。

……やっぱりアレが正しい姿だよね。学院を離れても、親しい子には住所聞いたから生きていれば会えるしなー…とか思う私がおかしいのよね。


「なんか、卒業生として疎外感……」


「アンタの場合はあたしら同級生より、心にとめる巨大な存在があるからね」


独り言のつもりだったのに、隣りから鋭いツッコミが入る。少しだけ睨んでみれば、モニカはそれはもう楽しそうに笑っていた。


「行きなさいメリル。アンタはここでだらだら駄弁ってる役じゃないわ。行くべきところへ行きなさい」


「行くべきところって………」


卒業式にクラスメイト以外の誰と居ろと言うのか。

そう続くはずだった返事は、突然の広場のざわつきによって遮られた。


声の方へ顔を向けた私の背を、笑ったモニカが押す。

『しあわせに』と。唇だけ動かして。



人波が割れていく。コツコツと、よく響く革靴の音を立てて、背の高い男性のシルエットが浮かび上がる。


(あ……)


翻すは藍色のマント。詰襟で隙なく着込んだそれは、魔術師の正装だ。

キチッと後ろへなで上げられた髪は、今日も光を受けて輝く青銀。こちらを真っ直ぐ見つめる端整な顔立ち…中でも一際目を引く鋭い金眼。

マントの留め具には、七日前に受け取った手紙の封蝋にもあった、彼の家の正式な紋。


“名門クラルヴァイン家”を代表する者の装いで現れた彼は、他を圧倒する存在感でここまでの道をただ真っ直ぐに。迷うことも臆することもなく、真っ直ぐに歩いてきて


私の前で止まった。


「………」


声が、出ない。

久しぶりに逢えた彼は、相変わらずとんでもなくいい男で、今日はそれに輪をかけで素敵で。

嬉しくて、眩しくて、ただただこみ上げる。

あんなに平坦だった心がざわめいて、熱くて、言葉にならない。


「………ギル」


ようやく絞り出した彼の名前に、鋭い金の目がゆっくりと微笑む。

動かない私の左手をとって、音もなく静かに跪く。

そのひとつひとつの動作が本当に綺麗で。ずっと見ていたい、時間よ止まれなんて願いながら。手に口付けた彼に少し遅れて追いついて、視線を合わせる。


「メリル・フォースター」


久々に聞く彼の声。低く、背筋に響いて、心地よい。

「はい」と、その声に応えられる自分の名前が、とても誇らしい。




「どうか、俺と結婚してください」





たった一言。

膝をつく彼が発した一言で、広間は静まり返った。

クラスメイトたちも、その親族も、来賓も、他の魔術師たちも。

口を閉じて、あるいは開けて、言葉をなくす。


私と同じように、そのたった一言の意味を噛み締めて。




「はい、喜んで」




魔法だった。学院で習った魔術ではなく、正におとぎ話の『魔法』だった。

彼がはなった一言は、私の心の海を溢れさせ、崩壊させ、ついでに私の涙腺も決壊させた。


応えた瞬間に、沈黙していた広場は割れんばかりの歓声で溢れた。

それはもう、寮にこもっていた院生たちが慌てて顔を出してくるぐらいの大歓声だ。

『おめでとう!!』と、名前も知らない皆が笑い、手を叩き、私たちを心から祝福してくれている。


声にならない。言葉にならない。こんな、こんな幸せなことが、あるのか。


「……メリル」


囁いた愛しい人が、私の涙をぬぐう。よく見たら彼も泣いていた。キッチキチに格好良くキメた名門の魔術師様が、プロポーズで泣いていた。


「やだもー…ギル台無し」


「俺らしいだろ? ああ、もう、逢いたかった。ずっとこう言いたかった。愛してる、メリル。もう絶対に…絶対に、離れてやらないから覚悟しておけ」


「当たり前です。誰が、こんないい男、離してやりますか…っ!!」


二人揃ってボロボロ涙をこぼしながら、立ち上がったギルが私を抱き上げ、そのまましっかりと口付けをした。

周りは驚いたり口笛を吹いたりとますます大賑わいだ。

いいじゃない。だって今日は卒業式だ。学院生にとって、何よりおめでたい日なんだから!



その日、私は卒業した。

六年間お世話になった、思い出溢れる学院を後にして……


私は彼の妻になった。



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