27:先の見えない幸せ
遠くで鐘の音が聞こえる。
あれは予鈴ではなく、午後の授業の始まりを告げる本鈴だ。
そうわかっているのに、体はちっとも動いてくれなかった。
「……初めて授業サボッてしまいました」
「俺のせいだと言っておくといい」
そう言って、大きな手のひらが優しく髪をすいてくれる。
食堂の喧騒が嘘のように、静まりかえった空き教室の中。聞こえてくるのは、先輩の規則正しい心臓の音だけ。
とても、とても穏やかな。まるで、世界に私たち二人だけしかいないような。
そんな温かい時間に、目を閉じる。
『幸せ』を説明しろと言われたら、私は間違いなく今この瞬間だと答えるだろう。
こんなに心地よい場所を、時間を、今まで知らなかった。
体を預けるのは広い胸板、守るように包んでくれるのはしっかりとした男の人の腕。
触れる指先はどこまでも優しくて、少し視線を上げれば蕩けるような笑顔が落ちてくる。
「……幸せ過ぎて、溶けそう」
無意識に呟いたら『じゃあこぼさないように気をつける』と、笑い混じりに抱く腕に力を込めてくれた。
ギルベルト先輩と恋人になった。その意味を、私たちは今噛み締めている。
口にしたらたった一言、ただの関係性を指す言葉であって、それ以上でも以下でもない。
けれど、体で表せばこの通りだ。幸せ過ぎて溢れてきそうな私の中身を、無理やり腕の中に閉じ込めて貰っている。
比喩でなく、本当に溶けてしまいそうだ。今まで彼の恋人になった人たちは、一体どうやって原型を保っていたんだろう。
「…幸せ、だな」
「はい」
「こんな感情、知らなかった」
今度は先輩が呟いて、また微笑む。
“このまま時が止まってしまえばいいのに”どちらとも言えない、あるいは両方の心の声が聞こえてくるみたいだ。
今この瞬間も、それは流れ続けて、止まることはないのだけど。
「……ギルベルト先輩、さっきの嬉しかったです」
「ん?」
「結婚しようって。言い間違いでも嬉しかった」
「ああ」
『本音だけどな』と付け足して、先輩の手がまた優しく髪を撫でてくれる。
それが彼の本心だと言うのなら、ますます嬉しい。だって
「私たち、結婚できませんから」
空気がひび割れる音が聞こえた気がした。
先輩は金色の目の大きく見開いてから、しわが残ってしまうのではと思うほどに、強く顔を歪めた。
妙な理由から彼と私が出会って、何てことはない日常を重ねて…少しの非日常も挟みながら、私は彼を好きになった。
彼も私を恋人にしてくれた。幸せだと笑ってくれた。
けれど、『それ以外の世界』は最初から何も変わってはいないのだ。
変わったのは私たち二人だけで、取り巻く環境はそんなもの構ってもくれないし気にも留めない。
クラルヴァイン家にとって、私は次期当主を強化し、才能ある子供を生むための道具。
否、それすらも不確定である今は、その辺にいるただの小娘だ。私には何の意味も価値も見出されていない。
(恋愛大作戦とか言っていられた頃は、気楽だったわよね)
愛のために家を捨てろ? そんなもの、上手くいくのは作り話の中だけだ。
本当に好きな人に『自分のために家を捨ててくれ』なんて言えるわけがない。
どんな理由があっても、それは今の彼を作ってきてくれたものだ。そんな大事なものを捨てろなんて、有り得ない。
好きな人だからこそ、言えない。言いたくない。
「貴方に“囲われる”ことは出来ても、結婚は出来ないから。嬉しかったです」
貴族の彼の方が、意味はよくわかっているだろう。
世の中には『愛人』と言う言葉もある。妻にはなれなくても、幸せはあるのかもしれない。
だけど、日の中を歩く彼の隣りには綺麗な女の人がいて…それこそ、イライザさんのような私では太刀打ち出来なさそうな人が隣りに居たら、眺める私はどう思うのかわからない。
愛人…いや、道具と言う立場で、いつまで彼の傍に居られるだろう。
「…恋人になれたその日に言うことじゃないですね」
茶化すように笑顔を作ってみても、彼は苦しそうな表情のまま、何も言わなかった。
ただ腕に力を込めて、授業が終わるまでずっと私を抱き締めてくれていた。
* * *
その日の放課後、偶然帰り際のノックス先輩と会えたので、その足で中庭の方に来て貰った。
『他に好きな人がいるから付き合えない』と伝えるために。
「……そっか。まあ、わかってた結果だけど。わざわざ有難う、フォースターさん」
「いいえ。私こそ、本当にごめんなさい。こんな小娘には勿体無いお話だったのに」
「君は可愛いよ。あんまり謙遜しないで。それより……」
苦笑した彼が、視線を私の背後へと向ける。心なしか鋭く、まるで睨みつけるように。
「もし辛い結果になったら、オレのこと頼ってくれ。彼よりは長く近くに居られるはずだから」
そう言い残して、ノックス先輩は走り去って行った。
今しがた振られた人間とは思えないほど、強く、はっきりとした声だった。
「……先輩、彼と何か因縁でもあるんですか?」
「いや? ノックスと言う名前にも聞き覚えはないぞ」
確認するまでもなく、振り返った先にはギルベルト先輩が肩をすくめて立っていた。
彼に覚えはなくても、『想い人を取られた』とかそう言う過去がありそうなのがモテる男の怖いところだ。
……現に私は彼に取られたわけだし、ね。
「中庭にご用でしたか? それとも、私に?」
「メリルに。悪い、振る現場を覗くつもりじゃなかった」
「貴方ならいいですよ。ちょっとぐらいは気にして貰えた方が嬉しいですし」
『恋人なんだから』とこっそり呟いたら、とても嬉しそうに笑われた。
うん、恋人なのだ。ノックス先輩でなく、私と彼が。
差し出された大きな手に自分のを重ねて、暮れ行く空の下をのんびりと歩き出す。
時折向けられる好奇の目も、今は祝福だと感じておこう。
「…メリル」
「はい?」
「メリルは、有言実行と不言実行なら、どちらがいい?」
寮の入り口が見え始めた頃、ぼんやりと消えてしまいそうな声で先輩が尋ねてきた。
見上げれば、その顔は苦しそうに歪んでいる。お昼の後のあの時のように。
「どっちでもいいですよ」
「……じゃあ、今は何も言わないでおく。変な期待はさせたくないし」
重ねた手が強く握り返される。少しだけ痛かったけど、何も言わずに綺麗な横顔を見上げる。
苦しそうに、それでも前を向いた横顔を。
「俺は、メリルが好きだ」
「それで充分過ぎます」
ギルベルト先輩と恋人になった日。
明るい未来なんてものは、全く見えないけど。
それでも、繋いだ手は温かくて、幸せだった。
バッドエンドのような引きですが、まだ続きます。
次回からは本編ともリンクするイベントになります(※運命ルートイベント)




