ウサギのリンゴ(3)
「綾部沙也ちゃんは、六年前に藤木坂に引っ越してきたみたい。彼女が例の『サヤちゃん』である可能性はあるよね。本人は否定してるけど」
笹木が綾部さんを青松町の駅まで送り、またねーとか、気をつけてねーとか言いながら手を振るのを見届けて笹木に近付いた。待機していた伊藤も合流して、そのまま駅で報告会になる。外はまだ明るいけれど、午後六時になろうとしていた。
梅鷲町に住んでいたのは間違いなかった。当時の連絡簿を確認すると、綾部沙也の名前があったらしい。
笹木が店に頼み、あの巨大なデザートにウサギのリンゴを付け足してもらった。記憶に残っている、右耳に癖のあるウサギ。あのリンゴを見て、切り方が自分と同じだと言った。彼女はサヤだ。
「確証って言えるほどのものはないんだけど、たぶん、あの子がサヤちゃんだと思う」
「でも、小夜子ちゃんのことは知らないって言ってたね。綾部さんは当時四組だったから、三組の野口小夜子ちゃんを知らないっていうのはそれほど不自然じゃないかな。それと、綾部さんも一人っ子みたい。五年生当時の連絡網に兄弟姉妹は『無し』ってあった。あと保護者欄には父親の名前っぽいのがあったよ。父親オンリーなのか両親そろってたのかは解らないけど」
笹木の話をじっと聞いていた伊藤が、ちょっと残念そうに笑った。
「ただの他人っぽいね」
「残念だけど、双子ではないよね。仮に、小夜子ちゃんと友達だったことを隠しているとしても、他人は他人のはずでしょう?」
「そうなんだけど、あの子はサヤちゃんだった」
そう呟いて、階段の壁にもたれかかる。なんか危ないこと言ってるな俺、と不安になる。双子説に執着しすぎているのかもしれないけど、サヨを知らないというのは、たぶん噓だ。
「湯川君の話と笹木さんの情報が、どっちも間違いじゃなくて、さらに綾部さんの発言も本当だとしたら、もう記憶喪失とかそういうのじゃない? 例えば、ご両親が離婚して、双子がそれぞれの親に一人ずつ付いていったから、苗字は違う。それでも二人は仲良しで、夏休みは湯川君と遊んでいたけど、その後、沙也さんは事故か何かで記憶をなくしてしまった。だから六年前のことは思い出せない。とか?」
そう言って伊藤は、自分の仮説を反芻するようにうんうんとうなずいた。笹木が難しい顔をする。
「うーん、これから思春期とか二次性徴とか、面倒なことになってくる時期の女の子を、母親が片方だけ手放したりするかな? よっぽどのことがないと、男親が子供を引き取ることはないって聞いたような」
「でも、事情なんて人それぞれだよ。離婚事由にもよるし、全ての親が真っ当な判断力を持ってるとも限らないんだし」
俺を置き去りにして、大人というより中年じみた会話が続く。笹木はともかく、伊藤が普段どういう話をご近所としているのか垣間見えたような気がした。
「だとしても記憶喪失はないんじゃない、さすがに」
「え、うちの近所のお年寄り、みんな記憶を喪失しながらも、明るく元気にお過ごしだよ?」
よく考えると怖いことを伊藤が笑いながら言う。思わず感心するような声が出た。
「すごい。そういう付き合いって面倒じゃないの? 俺、できれば避けたい」
近所のおばちゃん、おばあちゃん達の、どうでもいいような一方的な質問に答えなくてはいけないのが、とにかく面倒くさい。高校に入ってからは『智彦くん彼女できた?』という質問事項も追加された。そんなことを思い出してぐったりしていると、笹木も思い出したように聞いた。
「ところで湯川君。彼女の肩にある傷って、なに? 私、それだけ解らないんだけど」
「それは……」
説明が難しくて口ごもる。打ち合わせの際、綾部さんに聞きたいことリストを作成していた笹木に追加してもらった質問だった。伊藤がすかさず答える。
「ああ、それは湯川君がひん剥いたんだよね」
ええっ、と笹木が目を見開いて絶句する。いや、と訂正する言葉が見つからないうちに伊藤が続けた。
「まあ湯川君が、現在の沙也さんを包んでいる薄い布をひん剥いてあらわにしたうえで、ねちねちと当時のことを尋問して白状させたい気持ちは解るけど、あんまりやらない方が」
「違うから! 俺そんな気持ち解らないから! 誰の気持ちだよそれ」
人が焦れば焦るほど楽しそうな伊藤が、ふと話題を変えた。
「それにしても、そのお洒落なお店で、湯川君は何を食べてきたの?」
「そういえば私も見てなかったけど、何を頼んだの?」
「や、俺はまあ普通にコーヒー飲んだだけで。……って、そろそろ帰らないと」
慌てて腕時計を見るフリをする。女の子の会話に聞き耳を立てながら、一人でプリンを食べていたとは言いにくい。伊藤も駅の時計に目をやる。針は七時近くを指していた。




