・17
(ああ、でも。宿に迷惑を掛けてしまうわね)
朝から部屋を借りたので、周辺の部屋はまだ客が入っていなかったはずだ。だから騒音で迷惑をかけていないとは思うが、それでも念のため、防音の魔法を掛けておく。
これで扉を叩く音も叫び声も、本人以外には聞こえない。
エーリヒが戻ってきたら、もう一度話をしてみよう。
そう思っていると、突然少年らしき声が聞こえてきた。
「姉さん! こんなところで何をしているの!」
「えっ、トリーア? どうしてここに……」
少年の声は、その声の高さから察せられる幼さに不釣り合いなほど、厳しいものだった。
「だって、サージェさんが」
「まだあんな胡散臭い人間を、信じているの?」
「胡散臭いって……。トリーアまで、そんなことを言うの?」
姉さんと呼んだからには、ここで騒いでいたリリンの弟なのかもしれない。
姉を追ってここまで来たのか。
それとも。
「クロエ、遅くなってすまなかった」
「エーリヒ」
待ち望んでいた声が聞こえてきて、クロエは魔法を解除して扉を開き、その腕の中に飛び込んだ。
「えっ?」
驚くような声が聞こえてきて、クロエはエーリヒに抱かれたまま、振り返る。
すると、濃茶色の髪をした姉弟の姿が見えた。
彼女たちが、リリンとトリーアなのだろう。
リリンは、予想していたように可愛らしい顔立ちだった。ショートヘアで冒険者風の服装をしている。武器は、腰に差してあるナイフのようだ。
クロエの印象では、スピード重視のシーフタイプである。
隣にいるのが、弟のトリーア。
こちらは姉と同じ濃茶色の髪で、やや小柄だが意志の強そうな目をしていた。
エーリヒが話を聞こうとして、連れてきたのは彼のようだ。年齢は十歳くらいのようだが、先ほどの会話から察するに、姉よりもしっかりしている。
見た目も、賢そうな少年だった。
「トリーア、あなた、この人に捕まったの?」
慌てた様子で弟を庇おうとしたリリンだったが、その弟のトリーアは、呆れたように首を横に振った。
「そんなこと、あるはずがないよ。僕から声を掛けて、連れてきてもらったんだ」
スラム街に向かおうとしていたエーリヒに、トリーアは自分から話しかけてきたのだと言う。
「自分で?」
「うん。姉さんが、厄介なことに巻き込まれているとわかったからね」
トリーア曰く、エーリヒは身のこなしが周囲の人たちとまったく違っていた。だからサージェを追ってきた者ではないかと思って、姉のことを相談したかった。
エーリヒもまた、話を聞ける移民を探していたから、彼を連れて帰ったようだ。
「姉さん、この人たちは本当に、ギルドの特別依頼を受けて、サージェを捕らえにきた人たちだよ。依頼書も見せてくれたし、正式な身分証明書も持っていた」
「え、でも」
弟に諭され、リリンは狼狽えている。
「しっかりしてよ。姉さんのせいで、僕たちは全員、指名手配犯の共犯者にされるところだったんだよ」
「そんな……。ほ、本当に、サージェさんは嘘を?」
いくら魔法で防音しているとはいえ、宿の廊下で立ち話をしているのも迷惑だろう。
とりあえず話は中で聞こうと、クロエはエーリヒに目配せをして、ふたりを部屋の中に招き入れた。
「僕はトリーア。姉はリリンです」
姉弟を並んで椅子に座らせ、クロエはエーリヒと反対側に座る。
すると、トリーアはそう名乗って頭を下げた。
「この度は、姉がご迷惑をお掛けしてしまい、大変申し訳ございません」
子どもに頭を下げられて、クロエは慌てる。
「あなたが悪いわけではないから、顔を上げて?」
「ですが、すべての責任は、姉に」
「違うわ。悪いのは、人を騙して逃亡しているサージェよ」
クロエは同意を求めるように、エーリヒを見上げた。
「そうでしょう?」
自分が不在の間に、クロエのところに押しかけたリリンを、エーリヒは許せない様子だった。それでもリリンを騙したサージェと、彼女に情報を漏らした人が悪いのだと、クロエは説得した。
「それに、エーリヒが気を付けろと言ってくれたから、魔法で施錠したの。だから、大丈夫」
「……クロエが、そう言うなら」
最後には、エーリヒも納得してくれた。
「姉さん。こんなに迷惑をかけた姉さんを、クロエ様は庇ってくださった。姉さんからも、きちんと謝罪して」
「でも」
弟にそう言われても、リリンは迷っていた。
「まだあの人を庇うなら、僕はもう姉さんと一緒には居られない」
「そんな……」
リリンはショックを受けたような顔をしていたが、クロエも、弟の真摯な訴えさえ聞けないようなら、もう話し合いをしても無駄だと思っていた。
「わかったよ。ちゃんと謝るから。……申し訳ありませんでした」
そう言って、クロエに向かって頭を下げる。
謝罪の言葉を口にしながらも、まだ納得していなさそうな様子にエーリヒは顔を顰めたが、クロエはそんな彼の腕に手を置いて、首を横に振る。
クロエは、謝罪を求めているわけではない。
ただ話を聞きたいだけなのだ。
「サージェと、どうやって出会ったの?」
そう尋ねると、答えてくれたのはトリーアだった。
移動中に魔物に襲われて。それを助けてくれました」
「えっ、そうなの?」
誰かを攻撃している姿しか見たことのないクロエには、驚きの答えだった。
けれどトリーアは、続けてこう言う。
「助けてもらったのだから、お礼を言おうと思ったのですが……」
そう言いながら、隣にいる姉を見上げて溜息をつく。
「こちらが何か言う前に、事情があるので匿ってほしいと。それが目的で、僕たちを助けたようです」
「そんな、悪意のある言い方……」
「事実だと思うよ。後から知ったんだけど、僕たちの少し前に通った人たちは、魔物に襲われて被害者が出ている。目撃情報もあったから、あの人がそこにいたのは間違いないのに、彼らのことは助けなかった」
「……」
リリンは何か言いたそうだったが、トリーアに睨まれて口を閉ざした。
サージェはそこに魔物がいると知っていて、自分に都合の良い人が通りかかるのを待っていたのだろう。
そこでリリンはサージェの嘘にすっかりと騙されて同情してしまい、彼を助けようとした。
冒険者として登録していたことから、色々な伝手を使って情報を調べ、それを逐一報告していたようだ。
「銀髪の剣士と黒髪の魔術師が探しているって聞いて。それを伝えたら、その黒髪の女性は自分の恋人だと言っていて」
「ありえないわ」
話を聞かなくてはと思うのに、つい口を挟んでしまう。
「私の恋人はエーリヒだけ。今は婚約者でもある。彼と一緒に生きるために、頑張って魔石を納品していたのに、思い込みでエーリヒのことを勘違いして、いきなり魔法で攻撃するような人よ」
当時のことを思い出すと、今でも怒りがこみ上げる。
「勝手にそんなことを言われて、迷惑しているの」
「クロエ」
思わず手をきつく握りしめると、エーリヒがそっと手を取ってくれた。
そんなふたりの姿は、どう見ても互いに想い合う恋人同士にしか見えなかったことだろう。
それを見たリリンも、さすがにサージェを疑い始めたようだ。
「本当かどうか、サージェさんに聞いてみる」
「聞いても無駄だと思うよ。どんなに説明しても、きっとまた、自分にとって都合の良い嘘をつく。そんな人だったよ」
即座にそう答えたトリーアの言葉に、クロエも同意して頷いた。
「エーリヒは私の恋人で、ふたりで生きるためにすべてを捨ててきた。きちんとそう説明しているのに、まったく信じようとしなかったわ」
「でも」
「サージェと行動をともにしているのは、君たちだけではない。このままだと、彼らも危険だ」
クロエの手を握ったまま、エーリヒがそう言った。




