・9
王都を出てから走り続けていた馬車は、夕方頃にようやく隣町に到着したようだ。
馬車の窓からこっそりと外を見たクロエは、町の様子も王都とはまったく違うことに驚いた。
町にはそれなりに人が多そうだが、周囲には農地が広がっていたのだ。
城壁も、城門もない。
(すごい……)
城壁に囲まれた王都よりも、開放的で住みやすそうだ。
「クロエ、疲れていないか?」
「うん、平気よ」
エーリヒにそう聞かれて、クロエは笑顔でそう答える。
アリーシャが用意してくれたのは、マードレット公爵家所有の馬車で、内装も豪華だし、乗り心地も悪くない。でも朝からずっと乗っていたので、さすがに少し、肩や腰が痛い気がする。
クロエは馬車から降りると、思い切り手足を伸ばして背伸びをした。
「エーリヒは大丈夫?」
「ああ、問題ない」
その言葉通り、エーリヒは疲れた様子も見せなかった。
クロエは周囲を見渡す。
馬車は、とある宿の前に止まっていた。
王都に比べると質素なこの町には似つかわしくないくらい、豪華な建物である。
おそらくここが、アリーシャが言っていた貴族専用の宿だろう。
「今日の宿は、ここね」
貴族でも宿に泊まるのか、と不思議に思っていると、エーリヒが説明してくれた。
「王都にもたくさんあるぞ。地方貴族が王都に行く際に、利用するようだ。それに貴族であれば王都の出入りは自由だから、地方に静養に行ったり観光に行ったりもするらしい」
「そうなんだ……」
王都に邸宅を持つ貴族は、地方貴族を下に見ていて、あまり交流もない。
だから地方から来た貴族には王都に泊めてくれるような知り合いがいるはずもなく、王城に泊まれる身分でもない。
だから、貴族専用の宿が必要となるのだ。
最上位の貴族の中でも、身分によってまた差別がある。
その上、かつてのクロエのように、高位貴族に生まれたとしても、女性であるというだけで、自由のない生活を強いられている者もいる。
(以前のクロエのように、生まれてからずっとそんな環境だったら、不公平だと思うこともないのかな)
「クロエ、どうした?」
宿を見上げたまま動かないクロエに、エーリヒが心配そうに声を掛けてくれる。
「ううん、何でもない。宿に入ろう?」
そう言って、建物の中に入った。
アリーシャが手配してくれた馬車は、ここで王都に戻ることになっている。
これからは、ふたりで旅をしなくてはならない。
入ってすぐにカウンターがあり、揃いの制服を着た女性が、深々と頭を下げる。
内装も豪華で、床には柔らかな絨毯が敷かれていた。
(うわぁ、高級ホテルみたい……)
受付の女性も、人目を引く容貌のエーリヒを見ても、移民だとわかる黒髪のクロエを見ても、態度がまったく変わらない。
もしこれが普通の冒険者用の宿だったら、エーリヒを見て騒ぐ女性や、移民に見えるクロエを蔑む者もいたかもしれない。
アリーシャが、宿は貴族専用のものを利用するようにと言ったのは、こんなことも関係しているのだろう。
ふたりが案内されたのは、二階の奥にある広い部屋だった。
スイートルームのような室内は、寝室にダイニングルーム。リビング。そして、バスルームもあった。
「すごい、お風呂まである」
部屋の中を見て回っていたクロエは、そう歓声を上げた。
どうやら貴族専用の宿の中でも、特別室のようだ。
(さすが、マードレット公爵家……)
寝室にはベッドがふたつあり、それを見たエーリヒが、少し残念そうな顔をする。
「ベッドがあまり良くないな」
「え? そうかな?」
座ってみるとかなりふかふかで、寝心地も良さそうだ。
「ほら、気持ちよさそうだよ」
そう言って転がってみると、予想以上に体を包み込む柔らかさに、うっかり目を閉じてしまいそうになる。
「これ、すごい」
「前の家のベッドの方がよかった」
柔らかさを堪能するクロエに、エーリヒはぽつりとそう言う。
たしかに彼は、以前ふたりで住んでいた家で使っていたベッドが、とても気に入っていた。
「あのベッド、アイテムボックスにしまってあるから、またいつでも使えるよ?」
「それはわかっているが……」
クロエはベッドから起き上がって、エーリヒを見た。
やはり彼にとって貴族の生活は、窮屈なものなのかもしれない。
だからこそ、自由だったあの家に戻りたくなるのでは。
エーリヒは大丈夫だと言ってくれたけれど、どうしてもそう思ってしまう。
「……エーリヒ」
何とか元気付けたくて、クロエは言葉を探す。
そんなクロエの気持ちが伝わったかのように、エーリヒはこんな提案をした。
「クロエが、あの家と同じように一緒に寝てくれたら、元気になれるんだけど」
「えっ」
冗談かと思ったが、エーリヒは真剣な顔でクロエを見つめている。
「駄目か?」
「えっと……」
そう言われて、戸惑う。
「駄目、じゃないけど……。こんなに大きなベッドがふたつもあるのに」
「大きいから、ふたり一緒でも大丈夫だ」
そう言うと、エーリヒはクロエの隣に座り、先ほどのクロエのように、ベッドに横たわってしまう。
たしかに、小柄なクロエと細身のエーリヒならば、一緒に寝てもかなり余裕がある。
「クロエと一緒だと、安心して眠れるから」
愛しい恋人にそんなことを言われてしまえば、恥ずかしがってなどいられない。
「うん、一緒に寝よう?」
そう告げると、目が眩むかと思うほど眩しい笑顔を向けられる。
「旅の間、ずっとそうしよう」
「ずっと?」
「そう。旅先では、何があるかわからない。クロエを守るためにも、一緒にいたほうがいい」
同じ寝室なのだから、隣のベッドでも問題なさそうだが、エーリヒが安心するのならば、そのほうがいいのだろう。
「わかった。寝相が悪かったらごめんね」
先に謝っておこう。
そう思ったが、エーリヒはこんなことを言う。
「大丈夫だ。むしろ俺のほうが問題かもしれない」
「……あ、たしかに」
一緒に暮らしていたときのことを思い出し、納得してしまった。
寝相が悪いというよりは、枕と間違えてクロエに抱きついたり、暑いからと言って上着を脱いだりする。
「だから、問題ない」
「……うーん、そうかも?」
「それより、そろそろ夕食にしようか。今、部屋に運んでもらうから」
「うん!」
夕食と聞いて、クロエの興味がそちらに移る。
やがて食事が運ばれてきて、ダイニングルームにある広いテーブルに並べられた。
給仕を断り、ふたりきりでゆっくり食事を楽しむことにする。
「わぁ、すごい!」
見た目も美しく、品数も豊富で、クロエは目を輝かせた。
王都ではあまり見ない、新鮮な海鮮料理が中心のようだ。
「すごく美味しい……」
頬に手を当て、感動してそう言うクロエを、エーリヒは嬉しそうに眺めている。
「エーリヒも、もっと食べないと」
「俺は、クロエの手料理のほうが好きだ」
「じゃあ今度は私が作るね」
「ああ、楽しみにしている」
プロの料理のほうが美味しいだろうに、そう言ってくれるのが嬉しかった。
食事を終えると、リビングでお茶を飲みながらゆったりと寛ぐ。
綺麗な宿で美味しい食事を堪能して、つい楽しんでしまっていたが、今回の旅は、指名手配犯になったサージェを捕まえるためのものだ。
それを思い出して、クロエはエーリヒに聞いてみる。
「明日はどうする?」
「この町の冒険者ギルドに行って、情報収集をしてくる」
「わかった。その間、私はどうしたらいい?」
「ここで待っていてくれ。今回は、クロエの魔法の実践も兼ねているから、もし達成できそうな依頼があったら、受けるつもりだ」
「そうね。頑張る!」
王都では色々あって、結局魔法の練習はまったくできなかった。
だから今回の旅で、色々と実践してみるつもりだった。
魔法の本をたくさん読んだので、知識は身についた。
クロエは魔導師ではなく魔女なので、どんな魔法があるのか知るだけで、使えるようになる。
(……筈なのよね)
実際に使ってみたことがないので、どうなるかわからない。
けれど不安よりも、とうとう魔法を使うことができるという、期待のほうが大きかった。
馬車での移動が長かったこともあり、今日はゆっくりとお風呂に入って、早めに寝てしまうことにした。
疲れていないと言っていたエーリヒだったが、まだ髪も乾かさないまま、寝てしまいそうになっている。
「ほら、ちゃんと髪を乾かさないと。風邪を引いちゃうよ」
タオルを持ってきて、エーリヒの銀色の髪を丁寧に拭く。
「ん……。ありがとう」
エーリヒはそう言いながらも、もう目を閉じている。
それを何とか声を掛けて起こしながら髪を乾かしてやり、それが終わったあとに、広いベッドに寝かせる。
疲れたというよりは、ひさしぶりにクロエとふたりきりになって、気が抜けたのかもしれない。
クロエはすっかり眠ってしまったエーリヒに毛布を掛けてやり、自分も髪を乾かす。
(私は病気にならないから、風邪も引かないけど……)
エーリヒはよく頭を撫でてくれるので、髪は綺麗にしておきたい。
髪と肌の手入れをしてから、エーリヒの隣に横たわる。
するとエーリヒはクロエが来るのを待っていたかのように、その腕の中に引き寄せる。
(起こしちゃった?)
そう思って慌てたが、彼は眠っている。
どうやら無意識のようだ。
安心したような顔を見ていたら、恥ずかしさよりも愛しさがこみ上げてきて、クロエもそっとエーリヒの胸に頬を寄せた。
「おやすみなさい」
小さく呟いて、目を閉じる。
エーリヒの腕の中はとても温かくて、すぐに眠りに落ちていった。
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