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その日はふたりで小さな宿に泊まり、翌日に行動を開始することにした。
だが、もう時間が遅かったこともあり、部屋はひとつしか空いていなかった。
「え、ひとつだけ?」
動揺するクロエの前で、エーリヒはあっさりとそれを承諾して、前払いで料金を支払っている。
「待って、本当に同じ部屋に泊まるの?」
「何をいまさら。お互いに着替えまで見せあった仲なのに」
「変なこと言わないでよ!」
慌てて彼の口を手で塞いで、周囲を見渡す。
給仕らしき女性が頬を染めてこちらを見ていた。
「事実だけど?」
「あなたが勝手に服を脱ぎだしたのでしょう?」
「クロエ、声が大きい」
宿屋の奥にある飲食店にいた男たちから、からかいの声が上がる。
痴話げんかはよそでやれ、と言われて、クロエの頬が真っ赤に染まる。
もちろん、怒りのためにだ。
「まあ、俺のことはそんなに警戒しなくてもいいよ」
エーリヒはそんなクロエに、どこかのんきな声でそう言った。
「王女殿下のお陰で、完全に女性不審になっている。クロエでなければ、同室なんてこっちからお断りだ」
「……わかったわ」
おそらくクロエが父や兄、婚約者のせいで、他の男性を信用できないのと同じなのだろう。
そう言われてしまえば、もう強く拒絶することもできなくて、結局同じ部屋に泊まることにした。
どちらにしろ、部屋は空いていないのだから仕方がない。
最初は色々と余計な心配をしていたが、夜が遅かったこともあって、すぐに眠ってしまっていたらしい。
気が付いたらもう朝だった。
エーリヒも同じだったようだ。
お互い、ようやく籠の中から抜け出すことができて、少し気が抜けたのかもしれない。
「おはよう、エーリヒ」
化粧を落として、ぼんやりとした印象がますます強まった顔でそう言う。
朝陽に煌く銀髪に少し寝ぐせをつけたエーリヒが、寝惚けた顔のまま、おはようと返した。
「ひさしぶりにゆっくり寝た。監視がないって素晴らしいな」
そう言って立ち上がり、目の前で着替えをしだした。
「!」
クロエは慌てて顔を逸らした。
(もう、急に着替えるのだけは、やめて欲しいわ)
騎士らしくない白い肌だったが、その身体はさすがに鍛えられていた。
「朝食を買ってくる。何がいい?」
「えっと、サンドイッチとフルーツを」
「わかった。すぐに戻る」
旅の剣士のような服装をしたエーリヒは、そう言って部屋を出て行った。クロエも、その間に慌てて着替えをする。
(同室なのは、まぁいいけど。宿の節約にもなるし。でも着替えのときだけ、ちょっと困るかなぁ)
そう思いながら持ち出した荷物を整理していると、うんざりとした顔をしたエーリヒが戻ってきた。
「おかえりなさい。どうしたの?」
「しつこい女がいた」
女性が嫌いだというのは、本当のようだ。
これほど美形だというのに、何だかもったいないような気もする。
そんなことを考えているクロエの前に、彼は買ってきてくれたものを並べた。
具沢山のサンドイッチに、新鮮なフルーツの盛り合わせ。市場に行ってきてくれたのだろう。
「町が少し騒がしい。クロエのことを探しているのかもしれない」
「私だけ?」
「王女殿下が俺を探すとは思えない。それに、もし探すのなら近衛騎士を使う。だから俺ではないな。闇市場には俺が行ってくるから、クロエはここで待っていてくれ」
「……うん、わかった。お願いしてもいい?」
「もちろんだ」
持ち出した宝石を彼に託した。
「気を付けてね」
「俺なら大丈夫だ。監視魔法がなくなったからな」
エーリヒは軽やかに笑って、出かけて行った。
よほど王女に悩まされていたようだ。気の毒なことである。
昼になったら、宿屋にある食堂で食べるように言われていたので、時間になるのを待って下に降りる。
ここは宿屋で運営しているのではなく、店主が間借りして店を開いているようだ。だからか、宿屋の食堂というよりは、おしゃれな喫茶店のような場所だった。
(何がいいかな……。朝はサンドイッチだったから、パスタセットかな?)
量は少なめだが、綺麗に盛り付けた料理はおいしそうだ。まさか父も、地味で人見知りの娘が喫茶店でランチを楽しんでいるとは思わないだろう。
ランチセットを食べたあとに、さらにアイスティーとケーキのセットを頼む。さりげなく周囲を観察しながら、お茶を楽しんだ。
さすがに貴族はいないが、身なりの良い若い女性達が楽しそうにおしゃべりをしている。
貴族よりも、ある程度裕福な庶民の女性の方が自由なのだろう。
(やっぱり庶民のほうが自由だし、楽しそう。私には貴族なんて性に合わないしね)
そう思うと、前世の記憶を思い出してすぐに婚約を解消することができたのは、幸運だったのかもしれない。
前世では自分の思うまま自由に生きてきたので、貴族の掟やしきたりに縛られるのは嫌だった。
(うん、ケーキもおいしい。しっかり稼いで、世界各国のグルメを食べ歩くのも楽しそうね)
すでにクロエの心は、未来に向いていた。
父と兄、そして婚約者だった男のことなど、まったく頭に残っていない。
(人生は楽しまなくちゃ。せっかく異世界に生まれ変わったことだし、いろんな経験をしてみたいわ)




