第3章ー14
リヒトホーフェン中尉の願いはすぐには叶わなかった。
大量の損害を出しながらの航空出撃を独軍は続けることになった。
「ヴェルダン上空の血の6月」と独軍の公刊戦史はそれを記述する。
6月の間にインメルマン中尉らの戦死を皮切りに、ヴェルダン要塞を巡る航空戦で独軍のパイロットは約300名以上が戦死、または再出撃不能の重傷を負った。
一方の日仏軍の損害は合わせても30名程に過ぎなかった。
この調子で死傷者が続出しては、1916年中に独軍航空隊は存在できなくなっていたろう、とリヒトホーフェン中尉は遺稿に書いている。
幸いなことにアルバトロスDⅡやDⅢが1916年夏以降に前線に投入されたことにより、独軍は航空優勢を一時的に回復して、1918年まで抗戦できるのだが、独軍航空隊にとって最大の悪夢に6月はなった。
その原因について、独仏日の空軍関係者の見解は一致している。
最大の差は、戦術面の差だった。
「攻撃側が主導権を握りたいというのは当然だが、そのために常時制空権を確保するために少数機をパトロールさせるかね。
独軍の判断は理解に苦しむ」
大西瀧治郎中尉は首を振りながら言った。
「いいじゃないですか。
そのお蔭で数倍の戦闘機で襲撃できるのですから」
草鹿龍之介中尉は言った。
「まあな。攻撃に掛かるぞ。後ろを頼む」
大西中尉は襲撃を開始した。
大西中尉の愛機はソッピースストラッターだ。
複座戦闘機なので、後方警戒は後席の草鹿中尉の仕事になる。
相手を戦闘機だと軽はずみに判断して攻撃してくる独戦闘機は草鹿中尉の好餌になっていた。
気が付くと草鹿中尉は日本海軍航空隊きっての撃墜王になっていた。
独軍の戦術に対する日本側の戦術は簡明だった。
常に2倍以上の機数で協同して襲撃せよ。
常時、制空権の確保はできないが、多数の損害を与えて独軍航空隊を弱らせて、いずれ制空権を奪取する。
それに単機戦闘に習熟している独軍操縦士に対し、共同戦闘に習熟している日本軍操縦士の差もあった。
仏軍も早速、日本の戦術をまねた。
後は加速度的な差が付きだす。
出撃を繰り返し、空戦の経験を積んだ熟練操縦士が揃いだす日仏軍に対し、補充を繰り返した結果、未熟な操縦士が徐々に独軍は主体になる。
6月も終わりになる頃には、東部戦線の露軍のブルシーロフ攻勢や西部戦線の英軍のソンム攻撃に対処するために、兵力が引き抜かれたこともあり、独軍航空隊がヴェルダン要塞上空に飛ぶことは無くなっていた。
日仏軍の反撃の条件は整った。
「何とかなったな」
第3海兵師団長の鈴木貫太郎少将は、6月30日に一息ついた。
第3海兵師団は悪夢のような1か月を耐え抜いた。
日本海軍航空隊が戦闘機多数となったのは、日本海軍航空隊の山下源太郎中将が制空権確保の戦闘機を重視したのもあるが、もう一つ安かったというのもあった。
英仏軍は地上支援や観測に使える偵察機や爆撃機を重視しており、相対的に制空戦闘にしか基本的に遣えない戦闘機は価値が低く思われていたのだ。
実際、英仏軍の判断も間違ってはいない。
戦闘機主体の日本海軍航空隊は地上支援任務が余りできず、海兵隊はそのために苦戦を1か月の間、強いられることになった。
第1海兵師団長の柴五郎中将らが、偵察機や爆撃機をもっと揃えるように山下中将に直談判したほどだ。
だが、制空権を確保しないと何も始まらないと山下中将は反論した。
どちらが正しかったのかは悩ましいが、7月から日仏軍は反攻に移れる。
「ヴォー堡塁を護りぬけて良かった。
海兵隊の伝説になる」
鈴木少将は独り言を言った。
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