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第3章ー6

「本当にあの電文を軍令部に送って良かったのですか」

 黒井悌次郎参謀長は、欧州派遣軍総司令官である林忠崇元帥に尋ねた。


「良かったというしかないだろう。

 わしは旅順が煉獄にしか過ぎないと思える場所に部下を送り込むことになったのだ。

 わしだけ苦悩するのは真っ平御免だ。

 軍令部にも、そして、臣民にも苦悩してもらわないとかなわんからな。

 臣民は何かと言うと上に責任を押しつけて責任逃れをする。

 乃木将軍が旅順要塞攻防戦時に浴びせられた罵詈雑言を思い出せ。

 日露開戦を臣民があれだけ叫んだから旅順要塞攻防戦が始まったのに。

 臣民があれだけ対露開戦を叫ばねば、旅順で、奉天で海兵隊員はあれ程死なずに済んだはずだ」

 林元帥は答えた。


 その口調に込められた内心に気づいた黒井参謀長は、林元帥に同情した。

 確かに欧州派兵を主導したのは林元帥以下の海兵隊関係者のは事実だ。

 だがその一方で、日露戦争で奉天会戦の直後には称賛されたものの、それ以外はほぼ罵詈雑言の嵐に海兵隊が晒されたことを覚えている海兵隊の幹部は多い。

 そのことを考えれば、林元帥に自分も同調せざるを得ない。


 5月1日、土方勇志大佐は部下の兵たちを見回しながら、欧州に来るまで、こんな光景は想像できなかったと思わざるを得なかった。

 部下の兵たち全員がガスマスクを個人装備にしている等、対毒ガス戦対策を講じている。

 ここ欧州、特に西部戦線では対毒ガス戦闘に兵士が備えることが当然なのだ。

 ここ1月余りの数々の教練で、海兵隊員全員が対毒ガス対策に習熟しているはずだ、と土方大佐は思いたかったが、まだ実戦ではそのことが証明されてはいない。

 土方大佐は不安を覚えながら、ヴェルダン要塞へと部下たちと向かうことになった。


 同日、大田実中尉も部下の小隊員と共にヴェルダン要塞へと向かっていた。

 塩素にホスゲンか、毒ガスの名称を大田中尉は思い起こした。

 日本の海軍兵学校で教練を受けていた際には毒ガス対策が必要な戦場で戦うこと等、思いもよらなかった。

 塩素もホスゲンも自分が産まれる前からある物だが、戦場で使われるようになるとどれだけの人間が想像したろうか。


「間もなく聖なる道に入ります」

 部下の1人の下士官が叫んだ。

 聖なる道、ヴェルダン要塞に対する補給路の一つであり、仏軍が完全に確保している唯一の補給路である。

 この補給路は自動車のみ通行が許された自動車専用道路になっており、自分達も自動車に乗ってヴェルダン要塞に向かっている。


 欧州に赴くまで自動車に乗ること等、思いもよらなかったのに、今や自分や部下全員が自動車に乗っている。

 最も自動車運転に習熟した兵に自動車の運転を任せてはいるが、どうも居心地の悪さを感じる自分がいる。

 いや、一緒に乗っている者全員がそう感じている。


 ここ欧州の地に到着するまでは、何しろ戦場には歩いていくのが当たり前だったのだ。

 ガリポリ半島に赴く前に自動車を目にし、自動車を仏では戦場で活用していることを知ってはいたが、実際に自分達も活用するとは思わなかった。

 そして、懐にある手紙をそっと大田中尉は服の上から撫でた。


 草鹿龍之介中尉達同期の海軍航空隊の面々からの手紙で5月一杯耐えてくれ、6月には必ず救援に行く、と書いてあった。

 大田中尉は思った。

 ヴェルダン要塞で自分達は1月生き抜けるだろうか、不安だが生き抜くしかないな。


 聖なる道、と呼称されてはいるが、自分達にとっては地獄への道に入るか。

 大田中尉は何とも言えない笑みを浮かべつつ、部下と共に自動車に揺られながらヴェルダン要塞へ向かった。

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