第五十六話 砦怪談
砦を出撃した兵が、すぐボロボロになって逃げ帰って来た日から砦の空気が可笑しい。それは、砦の住む者達の中に共通認識だった。具体的に何が可笑しいと言える者はいなかったが、誰もが言いようの無い不安感を感じていた。
それはただ、味方が負けて帰ってきたのが原因
「まったくなんだってあのクソまずい糧食を持ってくんだか…」
その兵士も、砦の空気に当てらつつも、心細そうにランプを片手に夜の食料庫を見て回っていた。彼は、食料を管理する事を仕事している。最近、兵士による糧食の横領が増えてきていたので、夜の見回りをしていたのだ。
立ち並ぶ倉庫の間を心細と思いながら歩いていると、突如目の前に何かが現れた。
「ひっ!?」
それが、ただの女だと気付くと、思わず悲鳴を上げた事が恥ずかしくなり、それを誤魔化すように女に怒鳴った。
「なんだ!ここが立ち入り禁止区域だぞ!」
「もし…もし…。兵隊さん。どうか食料を分けて下さいませんか?」
良く見れば現れた女はほっそりとして、髪の長い美しい女だった。一枚の布に穴を開けて被り、腰の辺りを紐で結んだ貫頭衣を着ている事から、何処からか奴隷でも迷い込んできたのだろうと思った。女は見慣れない顔立ちだったが、それがまた女を神秘的に見せていた。
(それにしても良い女だな。一体何処の奴隷だ?)
兵士も砦の中に作られた娼館に通っていたが、兵士はこれ程の女は見た事が無かった。弱弱しく懇願する女に、兵士の欲望が刺激される。
「へ…へへ!良い事してくれるってんなら考えてやってもいいぜ?」
女は、その場でしばらく考えていたようだが、背に腹は変えられないと言った感じでその申し出を承諾した。
「ですが、その前に、おなかいっぱい食べさせて下さい。その最中にお腹が鳴っては、興ざめでしょう?」
「腹いっぱいか?」
その言葉を聞いて兵士は悩んだ。だが、女の体はどう見ても、痩せており、それ程食べるようには見えない。きっと腹いっぱい食べたとしても自分達の一食で食べる量すら食えないだろうと思った。
「いいぜ」
兵士は、ニヤニヤと鼻の下を伸ばしながら頷いた。
その兵士は、食料を管理している側の人間だ。食料庫にある糧食の数を誤魔化すなんて事は簡単。
(それでこんな女を抱けるんだ安いもんだ)
自身の幸運を兵士は喜んだ。
持っていた鍵束から一本を選び出し食糧庫の扉を開き、細い腕を引いて女を連れ込む。中に入ると中身が減っている木箱を幾つか、見繕ってドンと女の前に置いた。
木箱の大きさは一抱えほどあり、中には焼き固めたパンや、干し肉、野菜の酢漬けなどがそれぞれの木箱に三分の一ほど入っていた。兵士ですら一度で全て食べる事はできない程の量だ。
「あの、食べている姿は恥ずかしいので見ないでくれますか?お礼をする前に幻滅されるのも嫌ですの」
すると女は、顔を上げて恥ずかしそうに言う。思わず兵士の心がきゅんとなる。だが頭を振って冷静に考える。
「お前食い逃げなんてしようと思ってないだろうな?」
「そんな事はいたしません。お疑いなら倉庫の外で扉を見張っててください。ここには出入り口は一つしかありません。そうすれば私は、逃げる事は出来ないでしょう?」
一瞬兵士の脳裏に、彼女がここにある食料に何かするんじゃないかと思ったが、女が着ている貫頭衣に、何かを隠し持ている様子は無い。食料庫にある木箱には、釘でしっかり蓋が閉められ、バールなどが無ければ素手で開ける事など、兵士にすら不可能だ。
「まぁいいだろう」
そういうと兵士は、ランプを置いて食料庫から出て扉を閉めた。その途端、食料庫の中から物凄い食べる音がした。
バクバクガリガリムシャムシャムシャ。
(すげぇ音させて食ってるな。余程腹減らしてたんだな。こりゃ見なくて正解だったかも…。まぁこの様子ならすぐお楽しみの時間だな。ふふふ)
だが、いくら待っても何かを食べる音が止む事無い。
バクバクガリガリムシャムシャムシャ。
(どっどういう事だ?あの女が食い始めてから三十分は経ってるぞ?それなのに何で今も食ってる音がしてるんだ!?)
兵士は、こっそりと食料庫の中の様子を確かめる事にした。倉庫の扉をほんの少しだけ開いて隙間を作り、中を覗き込む。
ランプ一つしかない暗い食料庫の中で女がこちらに向いて立っていた。
(何だ?食べ終わったのか?)
だが、兵士の耳には、未だに食べている音が聞こえている。
(どういう事だ?仲間でも連れ込んでやがったのか!?いや背後で何が動いている?クソっ!暗くてよく見えねぇ!)
兵士はは暗い食料庫内の様子を見る為に目を凝らす。するとだんだんと中の様子が分かってきた。
(なっ!)
動いているのが何なのか気付いた瞬間、女の背後で動いていたのは髪。ただ揺れていたのではない。女の髪の毛がまるで蛇のように蠢き、床に置かれていた木箱から食料を持ち上げては、後頭部へと運んでいるのだ。
「うひぃ!?」
思わず兵士は悲鳴を上げた。その瞬間、立っていた女と目が合った。
「見ましたねぇ?」
声を掛けられた兵士は、叫ぼうとしたが、それは敵わなかった。突然、兵士の口を何かが塞いだのだ。兵士が下を見ると、女の伸びた髪の一部が床を這って、兵士の所まで来ていた事を知った。その間にも兵士の体には、次々と髪が纏わりつき、体を拘束する。兵士が身動きできなくなると、髪によって扉が静かに開かれ、男はそのまま食料庫の中へと引きづりこまれた。身をよじり逃げようとするが、ガチャガチャと鍵束が鳴るばかりだ。
「見ないでって言ったのに…」
女は優しく微笑んでいるが、その目は笑ってはいない。目にあるのは足りない、もっと、食べたいと言う欲望だけ。
「あら、また一箱空になってしまったわ。まだまだおなか減ってるのに…」
女は振り返り、次に開ける箱を選び始めた。
その時、兵士は声にならない悲鳴を上げた。振り返った女の後頭部にあってはならないモノが付いているのを見てしまったのだ
女の後頭部には大きな口があったのだ。分厚い唇に、まるで牙のように鋭い歯が並んでいる口、舌は雑巾のように大きい。
彼女は妖怪二口女、江戸時代に作られた本"絵本百物語"登場する妖怪だ。人によっては"食わずの女房"と言った方が分かりやすいかもしれない。見ての通り、後頭部に持つ二つ目の口で、全てを食べ尽くす、尽きる事の無い食欲を持った妖怪だ。
「次はこの箱にしてみましょうか」
二口女がそう言うと伸びた髪は、道具が無ければ開ける事が出来ないはずの未開封の木箱を軽がるとこじ開け、その中に入っていた食料を掴み、後頭部へと運ぶ。
運ばれた食料は、ポイポイと後頭部にあった口に放り込まれる。その口は、鍛えられた兵士達ですら食べるのに苦労する硬パンを簡単に噛み砕いていた。
バクバクガリガリムシャムシャムシャ。
(この音だったのか!?)
二口女の食事は止まる事は無く兵士はただ、食料庫にあった糧食を全て食べ尽くされるのを見ているしかなかった。
「こんなんじゃ満腹になんてならないわ」
すべて食べ尽くすと、二口女は、床に転がっている兵士近寄り、髪の毛が兵士の体をまさぐる。
ガチガチ
二口女の後頭部から二つ目の口が音を出して足りない、もっともっとと自己主張している。
「ねぇ、次は、何を食べさせてくれるの?約束でしょ私が満腹に為るまで食べさせてくれるって…」
ガチガチガチガチ
兵士は、逃げ出そうと死に物狂いで身をよじるが、二口女の拘束は、小揺るぎもしなかった。二つ目の口が、鳴らす音のスピードが上がる。
二口女は、兵士の耳に顔を寄せると言った。
「ねぇ。でないと、お腹が減りすぎて貴方を食べてしまいそう」
ガチガチガチガチガチガチガチガチガチガチ!
「ううううう!」
兵士は、恐怖に耐え切れなくなって白目を向いて気絶した。
兵士が気がつくと、自分が食糧倉庫の中で倒れてい事に気がついた。バッと身を起こし、自身のどこも齧られていないか調べる。体の何処にも痛みが無いことを確認すると、呆然と呟いた。
「いっ生きてる?いや。夢か?」
起き上がると頭を上げて、食料庫を見回す、そこには蓋を開けられ、空になった木箱が大量に転がっていた。
「あ。ああ!ああああああああ!」
それは、昨日の出来事が夢ではなかった事の証拠。
叫ぶ兵士の腰から、食料庫の鍵を纏めた鍵束がなくなっているのに気付くのは、その後だった。
「第一食料保管所が荒らされ空になっているだと!」
その報告をアルフォンスが聞いたのは、朝食の時だった。
「はい。ものの見事に食い尽くされていたそうです」
砦の中に複数食料保管場所が存在しているので、その内の一箇所全てが空になったとしても、しばらくは持つのだが、それでも軍が確保していた食料庫が襲われたと言う事実は大問題だ。
「警備の者は何をしていた!…いや、食い尽くされていた?どういう事だ!奪われたのではないのか?」
「荒らされた食料庫の一つで、呆けていた兵士を発見しました。尋問したのですが、"髪が…"とか"口を二つ持つ女が全部食った"と証言し、実際食料庫内を調査した結果、多数の食べこぼしと思われる物を発見しました」
「何だと!またか!」
最近砦の中で奇妙な事件…怪異が頻発していた。女に声を掛けたら、恐ろしい顔した化け物であったり、巡回していると顔の無い兵士と遭遇したり、便所で用をたしていたらサイクロプスに応援されたりとバリエーションは豊富だ。唯一の共通点は夜にその様な事が起こると言う事だけ。今では、夜を怯える兵士すら出る有様だった。
それでいて死んだ者は一人もいないという可笑しな事になっていた。
「ジョッシュ。お前の顔色も悪いな?」
アルフォンスが、報告をしていたジョッシュの顔を見て聞いた。ジョッシュの顔にはクマが出来ており、疲労の色が隠しきれない。元々タフな工作員であるジョッシュの疲れきった顔などアルフォンスは見た事が無かった。
「ハッ。私の気のせいかもしれませんが時折、隙間から誰かが覗いている目が見えるのです」
「それは曲者ではないか!」
「いえ、それが人間が居るはずの無い場所から覗いているのです。棚と棚の間や、果てはテントの天井に開いた穴。果ては、コップの底から…。もちろん私も最初は曲者かと思って探したりもしましたが、一向に見つからず…」
憔悴した様子のジョッシュに危機感をアルフォンスは感じた。
(一体俺の砦で何が起きているんだ!)
この砦の中に住む者は大なり小なり怪異にあっていた。ちょっとした奇妙な音が聞こえるだけのモノから、得体の知れない化け物を見たなど様々。
そんな中、ただ一人このアルフォンスだけが、何の怪異にも遭遇していなかった。
「くっ奴だ!奴等の仕業違いない!警戒態勢を今まで以上に厳にせよ!それに砦の中を徹底的に改めろ!なんとしても侵入者を捕らえろ!あと許可証の持たない者の出入りを制限するのを忘れるな!」
「かしこまりました」
「あと少しだ!もう少しで増援が来る。それまでの辛抱だ」
(クソッ!覚えていろ!必ずや、貴様らを滅ぼしてくれる!)
人族の砦は、モンスターハウス…いや稲生武太夫の屋敷と化していた。住民や兵士達の中に精神が不安定になる者が続出。それに伴い砦内部の酒の消費量の増大。治安も悪化し砦に住む者達は、夜になると怯えて絶対に外には出なくなった。兵士達も夜の見回りを拒否するものが現れ、その対応にアルフォンスは苦慮する羽目になる。
数日後、アルフォンス待望の援軍が到着する日になった。
援軍が来る門の前には、多くの人間が到着を待っている。砦内の食料は、二口女によって食い尽くされた為に不足し始め。その不安感から、ダーリアの街から送られてくる食料を今か今かと待っていた。
そしてとうとう薄ぼんやりとこちらに向かってくる物の姿を捉えた。
「おお増援が来たぞ…。待て何か様子がおかしい?」
こちらに歩いてくるのは、間違いなく味方の兵だ。しかし、行軍してきただけとは思えない程汚れた鎧。兵士達の表情も疲れきっていた。
その歩みは遅くアルフォンスには、敗残兵にしか見えなかった。
「一体何だ!何なのだ!これは!」
アルフォンスのその叫びは、青い青い空にむなしく響いた。




