第五十五話 夜の開幕
アルフォンスが、死に物狂いで砦へと帰ってきたのは、驚きをもって迎えられた。
意気揚々と出発したアルフォンスの部隊が、短時間でしかも、その殆どが矢傷を負い、砦に逃げ帰ってきた帰還。砦の住人達が気づかないはずが無い。
砦に残っていた兵士達や住人達が、集まってくるのを尻目に、アルフォンスは、馬から下り、係りの物に馬を預けると、いらだたしげに自身の天幕に向かって歩く。
「いかがなさいましたか?アルフォンス様!?」
そこへ、アルフォンスの帰還を聞いたジョッシュが慌てた様子で現れ、併走する。
「クソッ!蛮族どもにしてやられた!奴らは我らが打って出る事を予想していたのだ。我らの放った炎を隠れ蓑に、森を強力な陣地へと変えやがった!そこへまんまと俺達は、おびき寄せられたんだ!くそっ!くそっ!くそっ!あの化け物共の入れ知恵に違いない!あのエルフ共や、獣人共には絶対こんな事は出来やしない!」
途中からいつも被っている貴族の仮面が剥がれている事にアルフォンスは気付かない。それほどまでに怒っていたのだ。
興奮したアルフォンスの説明では要領は得なかったが、ジョッシュは、それでもフィフォリアの森の連中に罠にかけられ命からがら戻ってきた事は理解できた。
自身の天幕へと戻ったアルフォンスは、乱暴に自身が纏っている鎧を叩き付ける様に脱ぎ捨てる。それをジョッシュが黙って丁寧に回収する。
その間にアルフォンスは、棚に置かれていた蒸留酒のビンを取り、蓋を開けるとそのままラッパ飲みする。
「これからどうなさいますか?」
「ふぅ!すぐにフランツ叔父上へと増援を要請する書簡を送る!」
口から、あふれた蒸留酒が口の端から垂れる。それを袖で乱暴に拭う。
「よろしいのですか?」
ジョッシュが、心配そうにアルフォンスへと確認を取る。次の瞬間、アルフォンスの拳が、ジョッシュの頬へと叩き込まれる。拳が来る事が予想していなかったジョッシュは、受身も取れずに地面へと倒れこむ。
「よろしいわけがあるか!馬鹿者め!フランツ叔父上からの叱責は免れん!だが、この事を報告しないで見ろ!たとえ、この後エルフ共を捕まえたとしても殺されるわ!」
「もっ申し訳ありません。余計な事を申しました…」
「しばらくは、戦力の回復に専念する。警戒を厳重にしろ。許可なき者は、絶対に砦に入れるな!だが偵察は出せ。隙があれば火を掛けろと伝えるのを忘れるな!」
「はっ」
ジョッシュは、すばやく立ち上がると、アルフォンスの命令を遂行すべく天幕から出て行った。
「クソッ!」
今日何度言ったか分からない罵倒の言葉を吐くとアルフォンスは、領主フランツへと送る手紙を書き始めた。
マロ爺が、夕暮れに沈む木々の間から人族の砦を見ている。フィフォリアの森同盟の者達は少数の見張りを残して、意気揚々と前線基地へと帰還していた。
既にマロ爺の背後にある森は、闇の帳がおり始めており、もはや人の目で見通す事は出来ないほどに暗い。
「ひょひょひょ。馬鹿め、亀のように閉じこもりおって、ワシらにとっては格好の舞台じゃないか。なぁ皆の衆?」
砦の門は、負傷した兵士達を入れるときっちりと閉められた。そして門の上まで伸びている物見櫓には、今まで二人しか居なかった見張りの兵士が4人に増員されている。あからさまに篭城の構えだ。
そんなマロ爺の背後からクスクスやフフフ、はたまた形容できない笑い声が森に木霊する。
「じゃが、やり過ぎは行かんぞ。それに間髪居れずに脅しに掛かるのもいかん。おぬしらも分かっているだろうが、緩急が大事じゃ。やつらには程ほどに安心できる時間が無ければならん。すぐに開き直ってしまうからのう」
それを聞いた背後の闇が当然と言う様に蠢く。
「分かっておるじゃろうが、我らだけで勝ってはならぬ。フィフォリアの森に住む者達で勝たねばならぬ。貴様らだけでくれぐれも砦を落とすでないぞ?」
闇に浮かぶ無数の目が頷く。
「では、夜はワシらの時間である事を、あの若造達に教えてやるとしようかの。ゆけ。ものども。楽しんでこい」
それは、まるでちょっと、近所に買い物に行って来てくれと頼んでいるような軽い物言いだった。
だが、それで十分なのだ。
妖怪の総大将の号令。
それだけで、妖怪達は奮い立ち、簡単に狂奔する。
もし、ゆけぇ!人族共を皆殺しじゃぁ!などとマロ爺が妖怪達の前で全力で叫んだら、それこそこの世界の人族を皆殺しにするまで止らない百鬼夜行が始まる。
「ふむ。こんなものじゃろ」
ザザッザザッという音と共に周囲から蠢く気配が無くなったのを確認すると、最後に人族のとりでに向けてゾクリとする醜悪な笑みを一瞬だけ浮かべた。その瞬間森から音と言う音が消えた。風によって葉のこすれる音すらしない。まるで世界がマロ爺を恐れて息を潜めたかのようだ。
次の瞬間には、先ほどの顔が嘘か幻であったかの様に消え、好々爺然とした顔に戻る。世界にも何事も無かったかのように音が戻る。
「おっといかんいかん。久々の戦で気がはやってしまったわい…。いやぁワシもまだまだ若いのう。さて戻って、サナリエンちゃんの様子でも見て来ようかのぅ。饅頭の差し入れをしたら喜んで暮れるじゃて。ひょひょひょ」
マロ爺の足取りは、果てしなく軽かった。
二人の兵士が、砦の中を巡回していた。
場所は、兵士達の眠る天幕の近くだ。昼間の出撃から帰ってきた兵士達が夜半を過ぎているというのに、呻き声が、どの天幕からも聞こえてくる。
この世界では、基本的に薬は貴重品だ。普通の矢傷程度には使われる事は無く、せいぜい矢を引き抜き傷を洗って包帯を巻くのがせいぜいだ。酒を飲んで誤魔化すと言う手もあるが、そんな事が出来るのは上級幹部くらいのものだ。夕食の配給の時に水で薄められたワインを渡されるが、その程度では、とてもではないが酔えはしない。
それ故に、手傷を負った兵士達は、その傷が癒えるまで、痛みにひたすら耐えなければ為らないのだ。
「うめき声を一晩中聞かなきゃなんねぇって勘弁してくれよ…」
何処となくチャラ男っぽい兵士が言った。
「そうか?俺は逆に運が良かったと思うがな。お前は、あっちの方が良かったか?」
相棒である兵士は真面目に返事をする。
「冗談だよ」
「なら文句言うな」
「でもよぉ。せめて聞くなら女の呻き声とかの方が良いだろ。ん?どうした?」
そう言った時、チャラ男は隣を歩いていた相棒が、立ち止まり目をつぶっているのに気付いた
「ちょっと静かしろ。何か変な音が聞こえないか?」
「あん?どれ…おっほ!こりゃあ!」
チャラ男な兵士も耳を済ませると、うめき声の中に、明らかに女の物と思われるすすり泣きと思われる声が混じっているのに気がついた。
「きっと、なじみの兵士が死んだ娼婦が泣いてるんだぜ。おい、ちょっくら俺達で慰めてやろうぜ!」
この砦には、兵士の性欲の解消用に娼婦も連れてこられていた。長期戦の可能性もあったので、しっかりとそっち方面の人間も連れてこられてるのだ。
「ここは、兵舎の近くだぞ。娼婦が入ってこれる場所じゃないだろ」
「いやいや、女の情欲を舐めちゃいけねぇ。待ってろよ。今行くからな」
「馬鹿野郎。とはいえ、確認をせねば為らんのは一緒か…」
「そうだ。これは立派な任務だよ。ちみ~」
「言ってろ馬鹿が…」
二人はすすり泣く声のする方へと歩き出した。
泣き声がするのは丁度、兵士達が寝ている天幕と天幕の隙間だった。 兵が覗き込むとそこには、長い髪をアップに纏めた女が、地面に膝を着いてさめざめと泣いていた。兵士達には背を向けているが顔は分からない。だが、その後姿から見えるうなじのラインはとても綺麗で魅力的だった。
「お嬢さん。こんな夜更けにこんな所でどうしたんだい?ちょっとこっちに来て話を聞かせてくれないかい?」
チャラ男の兵士が、鼻息を荒くして声を掛けた。
声を掛けられた女はビクリと震えると「いやや」とか細い声で言った。
「そんな事を言わずに、俺達も仕事なんだ。何のつもりでもぐりこんだのか知らないけど俺達は、侵入者を捕まえなきゃ為らないんだ。だけど、事情を話してくれたら、今なら見逃す事だって出来るよ」
猫なで声でチャラ男な兵士が、隙間を通って女の近くまで近寄っていく。
その間にも女は「いやや」と繰り返し、白魚のような両手で顔を覆いながら首を振った。
「まぁまぁ」
チャラ男兵士は、女のすぐ後ろまで来てその肩に手を置いた。
「とりあえず、こっち向こうか」
そして、肩に置いた手を引き、無理矢理こちらのほうを向かせた。
「ひっ!」
「ウワッ!」
その顔を見た瞬間チャラ男のだらしの無い顔が一気に恐怖に染まる。同じように少し離れた場所で見ていたもう一人もぎょっとする。
女の顔はこの世の物とは思えないほど醜い顔をしていた。肌には無数のしわと出来物で覆われており、目はぎょろりと飛び出し、左右の目が独立してグルグルと動いている。鼻は削がれたかのように無く、唇は裏返り、汚れた乱杭歯がむき出しだった。
「見~た~なぁ~!」
醜い女は、肩を掴んでいた手を逆に物凄い力で掴み返し、今度は、チャラ男を押し倒す。チャラ男の顔に、思いっきり近づいてはぁと息を吐いた。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」
生臭い息を吐きかけられたチャラ男兵士は、悲鳴を上げる。
「憎い憎い憎いぃぃぃぃぃ!おとごがにぐぃいいいいいいいい!」
「うぁああああああああああ!離せ離せ離せぇええええええええええええ!」
「くっ!そいつを放せ!化け物め!」
何とか振り払おうと暴れる相棒を見て我に返ったもう一人の兵士が助けようと、女に向けて槍を突き出した。
「こんな私にだれがぁしたぁあああああああああ!」
だが、その女は、猿の様に両手両足を使いひらりと避けると、今度は真面目な兵士の方へと飛び掛った。真面目な兵士もその奇妙な動きに着いていけず、両腕をつかまれる。恐怖に駆られた兵士は、大声で叫んだ。
「たっ助けてくれ!化け物だぁ!」
だが、これだけ騒いでいるというのに、誰も出てこない。叫び声は砦内に響いているはずなのに。
「無駄無駄無駄ひひっ!」
それを女のような化け物があざ笑う。
いつの間にか枯れ木のように変化していた女の手が、兵士の首へと纏わりつき、兵士の首へと食い込む。
「ひっひいひひひひひひひひひひひひひひひひ!」
同時に、苦しむ顔を見ようと醜い顔が兵士の顔を覗き込む。そして独立して動いていた女の二つの目が男の目へとぴったりと合う。
「あっああ!ああああああああああああああああああああ!」
兵士は目を剥いて叫びを上げると恐怖に耐え切れず気を失った。
すると女の化け物は、興味を失ったかの様に兵士の首から手を離す。どさりと兵士の体は地面へと落ちる。
「ひひひひひひ!」
最後にそう笑うと、化け物女…いや、妖怪 否哉は、猿のようにジャンプして闇夜にまぎれて去っていった。
否哉は、見ての通りの女の妖怪で、後姿は美しい女性の姿をしているが、その顔は醜くチャラ男の様に声を掛けるとその醜い顔を晒し、声を掛けたものを脅かすの妖怪だ。仙台の城下町に現れたといわれる妖怪で、一説には、いやらしい顔をした男の妖怪とも言われている。
普通は顔を見せて脅かすだけの妖怪なのだが、ぬらりひょんの号令によりアグレッシブさがパワーアップしていた。
残されたのは、気を失って倒れた兵士が二人だけだった。
翌日、二人がひどい状態(主に下半身)で気を失ったていた二人が発見された。
二人が目を覚ますと上官が話を聞こうとしたが「女が!女が!」と怯えて話にならなかった。特に女が近くによると、ひどいパニックを起こしながら怯える様になった。
それが、今後、砦を恐怖のどん底へと突き落とす異常事態の最初の事件だった。




