【番外編】今、一緒にいること
朝食の席でエルヴィラが、絞りたてのオレンジジュースを手に呟いた。
「帝国の夏は本当に過ごしやすいですね」
ルードルフは、手を止めて聞き返す。
「そうかな」
エルヴィラは優雅な仕草でグラスを置いた。
「トゥルク王国では、太陽が容赦なく照りつけますもの。それに比べると涼しいくらいですわ」
「温かい飲み物でも用意させようか」
いつものように先走るルードルフに、エルヴィラは微笑む。
「このジュースで大丈夫ですわ」
「それはよかった」
エルヴィラは苦笑しながら付け加える。
「わたくしのことではなく……寒い国からトゥルク王国にいらしたオルガ様は大変だったのではないかと考えていましたの」
エルヴィラの兄リシャルドと結婚したオルガは、寒冷なキエヌ公国の出身だ。確かに、温暖なトゥルク王国になかなか慣れないだろう。
なるほど、と思ったルードルフは、不意に尋ねた。
「そもそも、あの二人はどうやって知り合ったんだ?」
リシャルドを介してオルガとも交流のあったルードルフだが、馴れ初めは聞いていないかった。
「まあ。リシャルドがキエヌ公国に留学していたから出会ったんだろうと想像はつくが」
しかし、エルヴィラは首を横に振る。
「逆ですわ」
「逆?」
「オルガ様がいらっしゃったから、お兄様はあちらに留学したんです」
「嘘だろ? いや……あいつならあり得るか……?」
公爵家の嫡男でありながら、どこか自由な男だ。留学くらい大したことではないかもしれない。
エルヴィラは続ける。
「オルガ様はお母様の遠縁なので、そもそもは身内の集まりで知り合ったのですが、お兄様が一目惚れしていきなり婚約を申し込んだみたいです」
「いきなり」
「ですがオルガ様は最初、国を跨いだ結婚に前向きではなくて」
「まさか、それで?」
エルヴィラは頷いた。
「はい。それならばとお兄様があちらに留学して、じっくりと自分のことを知ってもらおうとしたみたいですわ」
唖然とするルードルフに、エルヴィラはちょっとだけ妹の顔になって付け足す。
「結果的にオルガ様もお兄様のことを気に入ってくださったからよかったようなものの、そうでなかったらご迷惑なお話でしたよね」
「……リシャルドは諦めが悪いからな」
負けないくらい諦めが悪い自覚のあるルードルフは、それ以上は言及しなかった。
‡
そんな噂話をされているとも知らず、トゥルク王国では今日もリシャルドが朝食の席で妻を褒めていた。
「今日も綺麗だね、オルガ」
向かい側に座ったオルガは苦笑する。
「旦那様、まずはおはようございます、でしょう」
寝室が同じなので朝の挨拶は当然済ませていたのだが、それはそれだ。
リシャルドは素直に頷いてから、言い足した。
「おはよう、オルガ。いつ見ても可愛いけれど、朝日に照らされた君はさらに綺麗で、一日を頑張れる気力をもらえるね」
「そんなことおっしゃって。知ってるんですよ。また忙しくなること」
オルガは、ちょっとだけ口を尖らせる。
「私が寝た後に帰って、起きる前に出て行くのはやめてください」
リシャルドは意外そうに聞き返した。
「寝顔を見ちゃダメなのかい?」
「私が寂しいんです」
素直に答えるオルガに、リシャルドはナイフとフォークを置く。
「……今日はもう宮廷に行くのやめようかな」
「どうしてですの?」
「オルガとずっと過ごしていたい」
オルガは思わず笑った。
――そこで笑ったら負けだとわかっているけれど。
「ルストロ宰相やエサイアス様がお困りになるわ」
「……では寝顔を見ても許してくれる?」
「ちゃんと起こしてくださるなら」
「君を寝不足にしたくはないのだが……努力するよ」
オルガは黙って微笑んだ。
‡
リシャルドを見送ったオルガは私室に戻り、侍女のカミラとくつろいだ時間を過ごした。
「本当にお二人は仲がいいですよね。喧嘩などもしませんし」
冷やかされるのもいつものことだ。
オルガはクスッと笑う。
「出会う前は、顔だけの貴公子だと思っていたのにね。向こうは向こうで、私のことをどうせ見た目だけの女だろうと思っていたらしいわ」
カミラもそのことは知っていたので否定しない。
「それが出会った瞬間、一目惚れ。今では誰もが羨むご夫婦です」
「わからないものね……眩しいからカーテンを閉めてくれる?」
「はい」
女主人を強すぎる日差しから守るため、カミラはカーテンをしっかりと閉めた。
薄暗くなった部屋にほっとしながら、オルガは呟く。
「……留学までしてくれる人、いないわ」
先に差し出してくれた勇気を受け止めたから、自分はここにいる。
そのことをお互いいつも示し合う。
忘れない。
――だから、そばにいる。
「オルガ様、いかがでしょうか」
いそいそと戻ってきたカミラに、オルガは頷く。
「ありがとう。本当に、ここの夏は暑いわね」
そう話しながら、オルガは自分の瞳が穏やかに輝いていることを知っている。
‡
一方。
一足先に秋の気配を忍ばせる帝国で、エルヴィラとルードルフは、夕暮れの庭園を散策していた。
咲き誇る花を眺めながら歩いていると、不意にルードルフが悩み出した。
「来年はもっともっと乙女の百合を咲かせるべきか……? いや、エルヴィラの負担が大きくなるから逆に少なくして……」
エルヴィラは笑う。
「ルードルフ、気が早いです。ついこの間『乙女の百合祭り』が終わったところですよ」
ルードルフは立ち止まって、手で口元を押さえながら、堪えきれないように告げる。
「今の、もう一度言ってほしいんだが」
エルヴィラは不思議そうに首を傾げた。
「気が早いです?」
「その前」
意図を察したエルヴィラは、少し頬を赤らめる。
「……何回言わせるののですか」
「何回でも聞きたい」
呆れたように、困ったように、照れたように、それでも小声で言ってくれた。
「……ルードルフ」
「いい。実にいい」
深く頷いていると、エルヴィラが拗ねたように数歩先を歩き出す。
ルードルフは笑いながら、すぐに隣に並んだ。
呼び方が変わったのは、少し前からだ。
最初は照れていたエルヴィラだったが、いつの間にか慣れて自然に口にするようになっていた。
慣れないのはルードルフの方だ。幸せすぎて。
――きっとこういうふうに、ずっと負け続けるんだろうな。
そして、それこそが自分の望みなのだ。
エルヴィラが、思い付いたようにルードルフに言う。
「冬になる前に、またエリー湖に行きません?」
ルードルフは大きく頷いた。
「行こう、絶対行こう」
思い出が重なっていくこと。
今、一緒にいること。
それらすべてが幸せだと噛み締めると同時に、忘れようとしても忘れられないその金髪と青い瞳がルードルフの脳裏に浮かぶ。
「あいつは本当に馬鹿だったな……」
声に出すつもりはなかったのだが、エルヴィラが不思議そうに聞き返した。
「何か言いました?」
ルードルフは笑って首を横に振る。
「なんでもない。どうせなら、長めに滞在したいと思って」
「ギーセン宰相が渋い顔をするんじゃないかしら……」
「違いない」
「ふふふ……あら」
空を見上げたエルヴィラが、目を輝かせた。
「ルードルフ、とてもきれいな夕焼けですね」
「本当だ」
ルードルフが同じ空を見上げると、悲しいくらい美しい夕焼けが、そこには広がっていた。
――お前は本当に馬鹿だったよ。
そんなたわいのない会話を大切に感じるたびにルードルフは、大切にするべきものをわかっていなかった、傲慢な若き王を思い出す。
何度でも、思い出す。
忘れない。
――だから、安心しろ。
今となってはもう届かない言葉を添えて。
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