最終章 そして温泉へ
もう一度話を聞きたい、と丸柴刑事に応接室に呼ばれた熊林美由紀は、理真の推理を聞かされると全面的にそれが事実であると認めた。理真としては、宗の目撃証言をはじめ、崖からの指紋採取の準備があることを告げるなど、証拠や揺さぶりの材料を用意していたのだが、それらが使用されることはなかった。
熊林の口から、須仁田ミーシャこと、椎谷保巳に、今回の死因に繋がった病的なまでの特殊性癖があったことも明かされた。椎谷のそういった行動を発見するたびに熊林は、児童文学作家という自分の立場を理解してくれ、と何度も注意していたのだが、さほど効果は上がらなかったようだ。
椎谷が転落死に至った具体的な経緯も、熊林から証言されることとなった。
昼に露天風呂に入った熊林は、その構造を見て、もしかしたら椎谷が覗きを行うかもしれないと危惧した。月明かりしかない夜の闇に乗じ、黒ずくめの格好をして崖を登るまでやりかねないと、普段の椎谷を知る彼女は思ったという。熊林は椎谷に忠告しようと思ったが、もし彼にそのつもりがなければ、無駄に行動を煽るだけになるかと考え、何も言わずいることにしたのだという。しかし、彼女の期待は裏切られることとなった。夜の露天風呂に浸かっていた熊林は、念のためにと湯船の一番奥まで行き、崖下を覗き込む。そこには、全身黒ずくめの格好をした人間が岩肌を登っており、もうすぐ頂上である湯船の縁に到達するところだった。相手も、自分の姿が入浴客に見られたこと、さらに、その相手が自分のマネージャーだったことを知ったらしい。慌てた様子で崖を下っていこうとした椎谷は、すぐに足を滑らせて……。
そのとき、露天風呂に自分以外に誰もいなかったことは、僥倖以外のなにものでもないと熊林は感じたという。それからすぐ、脱衣所に動きがあり、数名の入浴客が入ってきた(私たちのことだ)。眼下を見下ろせば、ひとりの人間がぴくりとも動かずに横たわっている。死んでいる、と熊林は確信したという。全身黒ずくめの格好とも相まって、月明かりだけではそこに死体があることは、そうと知らなければ――かつ、よほど視力が良くなければ――視認される可能性は低いかもしれないが、決してゼロではない。今、この状態の死体を発見されるわけには絶対にいかない。熊林はそのまま湯船の一番奥に陣取り、死体を誰の目にも触れさせないようにした。そうしているうちに、熊林の頭の中に死体を入浴中の事故に偽装する計画が浮かび上がり、具体的な形を成していった。そうなれば、自分以外に入浴客が誰もいなくなるときが来るのをただ待つのみ。もしその隙が生まれなければ、旅館の中を通って通常のルートで死体のもとに走るつもりだったという。
果たして、露天風呂に自分しかいなくなる瞬間が訪れた。このとき、午後十一時三十分。熊林はバスタオルを取りに脱衣所に走り、計画を実行に移した。学生時代は陸上部のエースで、現在も週に数度のジム通いを欠かしていない自分なら、この崖を下りることは可能だと確信し、たっぷりとお湯を吸い込んだバスタオルを肩に掛けながら、熊林は湯船の縁を乗り越えた。
熊林は、一向に改善を見せない椎谷の行為に呆れ、何度もマネージャーを辞めようと思ったことがあったという。だが、人前に出ることを極端に嫌う椎谷の代わりに作品のイベントなどに赴き、“須仁田ミーシャ”の著作を読んでいる子供たちの楽しそうな顔を見るたび、この仕事はやり続ける価値があると思い直していたという。だからこそ、“須仁田ミーシャが女湯を覗こうとして事故死した”などという醜聞が世間に露見することだけは絶対に避けたかった、と熊林は語った。そんなことが明るみになれば、須仁田ミーシャの著作はすべて回収され、文壇からその存在ごと抹消されることになると彼女は確信していた。「作品の価値と作家の人間性は無関係」という考えもあるが、熊林はその論調には否定的であった。
私はひとつだけ気になっていたことがあった。宗に詳しく話を聞いたところ、彼がサービスエリアで目撃した際、車――スカイブルーのSUV――のハンドルを握っていたのは、須仁田ミーシャ、すなわち男性の椎谷保巳であったはずだが、旅館に到着して私が見たときには、運転席から下りてきたのは女性、つまり熊林美由紀だった。これについて訊いてみたのだが、何ということはない。サービスエリアを出てから、椎谷は牛乳を飲み過ぎて腹の調子を悪くして、高速道路を下りると旅館へのルートをいったん外れ、コンビニに駆け込んでトイレを借りたのだという。その後も体調が快復しきっていなかったため、以降の運転は熊林が代わったのだという、それだけのことだった。先にサービスエリアを出たはずの椎谷の車が、旅館到着時には私たちの後ろにつけていたのも、コンビニに立ち寄ったせいだったというわけだ。
死因は事故死であれ、熊林が死体に工作を施して捜査を撹乱させたことは罪に問われる。だが警察は、「どうか椎谷の名誉――いや、作品と、それを読む子供たちの名誉だけは守って欲しい」と涙を流しながら頼み込んだ熊林の願いを、どうやら聞き入れることになりそうだ。児童文学作家、須仁田ミーシャの死は、哀悼の意を持つにしかるべき形で読者たちへ知らされることになるのだろう。
私たちはチェックアウトを済ませるため、五人全員でロビーに集まっていた。
「それにしても、宗」と長谷川尚紀が、「旅行先の温泉旅館で事件に遭遇するなんて、お前もいよいよその域に達したな。もう言い逃れ不可避なくらいの探偵っぷりだぞ」
どこかで聞いたようなことを口にした。すると宗は、
「俺は関係ないだろ! 今回のことは全部、姉ちゃんのとばっちりだ」
「なにおう」
それは聞き逃せないと、姉の理真が弟ににじり寄る。
「まあ、確かに」と尚紀は、「実際に事件を解決したのはお姉さんのほうだしな」
「いやいや」と宗は顔の前で手を振り、「俺の目撃証言がなかったら、どうなってたか分かんなかっただろ。全然無関係の人に冤罪をかけてたかもしれなかった。半々――いや、六四で俺の手柄だね」
「お前は探偵として活躍したいのか、したくないのか、どっちなんだ」
尚紀はため息をついた。
「それはともかく、理真さんっ! お見事でしたっ!」
唐橋知亜子が、眼鏡の向こうの輝く大きな瞳で理真を見上げ、そのまま理真の両手を取り、ぶんぶんと上下に振る。
「あ、ありがとう……」
若干引き気味に理真は礼を述べる。知亜子はさらに、
「宿泊はもうチェックアウトですけれど、ここは日帰り入浴もやってるから、最後に天空露天風呂に入ってから帰りませんか? ぜひ、そうしましょう!」
握っていた理真の手をそのまま引っ張っていこうとする。ちなみに今日のタイムテーブルは「B」現在時刻は午前十一時半なので、あと三十分も待てば女湯に切り替わる。
「それもいいね……」
「ん?」
理真が知亜子の提案に乗りかけた、そこに、
「理真、私はこれから所轄に行くんだけど……」
丸柴栞刑事が登場した。すると、
「丸柴さんっ!」
光の速さで知亜子は移動して、刑事の前に立ちはだかった。
「なな、なに?」
さすがの丸柴刑事も、知亜子の発する気には押され気味だった。
「あ、あのっ、わ、私、大鳥高校一年、新聞部の唐橋と申しますっ! ぜ、ぜひ取材お願い出来ないかなと……」
顔を赤くしながら、しゃちほこばって知亜子は取材の申し込みを入れた。
「でで、できればですね……温泉に浸かりながら、ゆっくりと……」
「ごめんね」丸柴刑事は拝むように片手を上げて、「私、これから所轄に言って調書取らないとなんだ」
「そ、そうですか……」
知亜子は表情を曇らせた。そのやり取りを見ていた理真は、二人に近づいて、
「ねえ、丸姉。これから露天風呂に付き合えない?」
「えー? だから、私は……」
「事件を解決できたのは、唐橋さんのおかげでもあるんだし」
「そうなの?」
「そ、そうなんですか?」
刑事と高校生は、並んできょとんという顔をした。
「じゃあ」と理真は携帯電話を取りだして、「私が城島警部に頼んでみようか?」
城島警部も丸柴刑事同様、県警捜査一課における理真のよき理解者のひとりだ。
「理真にそんなことさせられないでしょ。私がかけるわよ」
仕方がないな、といったふうに、丸柴刑事は携帯電話を発信した。
「警部、実はですね……」数分の通話ののち、丸柴刑事は電話を切ると、「有給がたまってるから、ついでに消化しろだって。あとのことは警部が面倒みてくれるって」
「さすが! 警部は話せる上司だなぁ」
理真は笑みを浮かべて頷いた。
「えっ? それじゃあ……」
知亜子が期待に頬を染めた顔で丸柴刑事を見ると、
「ひとっ風呂浴びてから帰りましょ」
「うわー! やったー!」
知亜子は跳びはねて喜んだ。
昨日から数えて三回目の天空露天風呂の湯船に、私たちは浸かっている。ちなみに宗と尚紀は、通常の男湯に入っている。
「……どうしたの? 唐橋さん」
丸柴刑事が訊いた。知亜子は、脱衣所に入ってから、ずっと丸柴刑事に――正確には、彼女の裸身に――視線を注ぎ続けていたのだった。
「丸柴さん、スタイル良くてかっこいい……」
「ふふ、ありがと。刑事は体が資本だからね」丸柴刑事は腕を上げて大きく伸びをして、「実は私、唐橋さんの声を掛けてもらって、理真が警部に電話するって言ったとき、心の中で、よっしゃ! ってガッツポーズを取ったわ。警部ならやってくれると信じて」
「あはは」
丸柴刑事が本当に拳を握りしめたので、思わず私は笑った。
「唐橋さん?」
丸柴刑事が呼びかけた知亜子は、数歩距離を取り、私たちのことをじっと、眼鏡の奥から見つめていた。
「どうしたの?」
理真も訊くと、
「いや、このお三方、じつに絵になりますね……皆さん美人で、スタイル抜群で」
「ふふ、ありがと」
理真が礼を言い、丸柴刑事も「ありがとう」と笑みを浮かべる。確かに理真と丸柴刑事には、知亜子の評はぴたりと当てはまるだろう。私はこの二人の仲間に入れてもらい、恥ずかしさと恐縮することしきりで、曖昧に微笑むことしか出来なかった。知亜子は両手を顔の前に持ってくると、人差し指と親指でフレームを作って片目をつむり、
「写真一枚いいですか?」
「だ、駄目に決まってるでしょ!」
私は思わず立ち上がった。
「ん? いいじゃん、由宇。記念に一枚」
「また、あんたはそういうことを言う……」
冗談めかした理真の声に、私は抗議した。
「はあー……」
と、指で作ったフレームを下ろした知亜子は、深いため息をついた。
「どうしたの?」
理真が訊くと、
「皆さん、ナイスボディで羨ましいです。私なんて……」
知亜子は湯船の中で自分の体をさすった。
「そんなことないよ。唐橋さんも色っぽいよ」
「そうそう。それに、まだ高校一年生でしょ。女としちゃ、まだまだひよっ子よ」
ナイスボディを持つ探偵と刑事に励まされたが、知亜子の表情は変わらず、物欲しそうな視線は私たちの胸に注がれている。
「唐橋さん、眼鏡外してみたら?」
理真が提案した。そう、知亜子は眼鏡をかけたまま入浴している。露天風呂からの雄大な眺めを楽しむため……ではなく、お姉様方の裸体を鑑賞するのが目的であることは疑いがない。入浴してから彼女は景色になど一切目もくれていないし(ちなみに私も眼鏡はしたままだが、これは眺望を楽しむ目的としてであることを、ここに強く宣言しておく)。それにしても知亜子、昨日はまだ景色を眺める余裕(カモフラージュ?)を見せていたのに、もはや節操がなくなってきたな……。
「あ、いいじゃない」と丸柴刑事も、「眼鏡で印象って随分変わるもんね。唐橋さん、セクシーな目をしてるんだから、眼鏡で覆うのはもったいないかもよ」
「そ、そう……ですか?」
その気になったのか、知亜子は眼鏡の弦に指をかけて、ゆっくりと外しにかかる。
「うん、かわいい」
理真が賞賛すると、裸眼になった知亜子は、「へへ……」と、はにかんだ。うん、確かにかわいい。今の知亜子は湯に入るため髪をアップにしている効果もあるのか、大人っぽさがぐっと増したように思える。私としては、眼鏡女子の仲間が減ることになって少し寂しい気持ちもあるが。この女子高生の変身ぶりに、丸柴刑事も賞賛の言葉を送るだろうと思っていたのだが。
「……」
その刑事は、知亜子の顔をじっと見つめたまま、無言を貫いていた。
「どうしたんですか?」
そのただならぬ様子を察したのか、知亜子が訊くと、
「ねえ、唐橋さん、あなた、私と会ったことない?」
「……えっ?」
「どこかで見たことがあるような……」
丸柴刑事が、小首を傾げながら湯の中を這って知亜子に近づいていくと、
「――あっ! い、いえ! ついさっき、ロビーで初対面です! それはもう間違いありませんっ!」
慌てたように知亜子は眼鏡をかけなおし、結っていた髪もほどいてしまった。
「あっ、ねえ、もっとよく見せてよ」
「よく見せてだなんて、そんな、恥ずかしい……」
「そういう意味じゃなくて」
露天風呂の湯船の中、刑事と女子高生は波しぶきを上げながら追いかけっこを続けていた。
お楽しみいただけたでしょうか。
理真と宗を本格的に同時登場させてみようという考えが本作執筆のきっかけでしたが、ただ探偵が二人に増えただけでは意味がありませんし、推理合戦的な展開もこの二人だとちょっと違うなと思いまして、このような内容に着地しました。「叙述トリック」に分類されるものですが、読者だけでなく、作中人物も騙されている叙述トリックというのが出来ないかと思って、本作のトリックが生まれました(もしかしたら――いえ、絶対に同じようなトリックを使用した先行作品はあるはずですが)。
とはいえ、本作では犯人が意図的に騙しているわけではなく、ただ単に勘違いでしかないため(「第6章」で相手の性別を表記していないことで、「これは何かやるな」とピンときて早々にトリックを見破った読者の方もいらしたかと思いますが)、「犯人が作中人物に仕掛ける叙述トリック」という、もっと突き詰めたものをいつか書いてみたいと夢想しています。
なお、作中に登場した旅館や天空露天風呂はすべて作者による創作であり、実在するモデルなどは一切ありません。ご了承ください。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。




