◇27
そうして、その翌晩、宣告通り道添家の面々がうちにやってきた。
でも、予想外だったことといえば、全員で来たこと。兄貴も今日は大学を休んで家にいた。まさかこの家に両家が勢ぞろいするなんてな……
玄関先でびっくりするような威厳を放っていたのは、道添家当主だった。俺も初めて会う。アキの父ちゃんだってかすんで見えるくらいだった。
「これは、朱鷺子刀自。お姿を拝見したのは何年振りのことかな」
真っ白くて綺麗な白髪の髪を一本の乱れもなくまとめて、薄紫のザラッとした質感の着物を着ているばあちゃん……
いや、ばあちゃんなんて呼び方が似合わないくらい凛々しい。このばあちゃんこそ、疋田村の村長だから。
玄関先でアキのばあちゃんを迎え入れたうちのじいちゃんも、家の中にいる時ののんびりとした顔じゃない。余所行きの顔だ。急に何歳も若返ったような、そんな気の張り方をしている。
「ご無沙汰しております。このたびは孫がお世話になったそうで、お礼を申し上げに参りました」
そんな声も、すごくよく通る。何か、日本舞踊とか小唄とか習い事の師匠みたいな感じがする。
綺麗な所作でばあちゃんがお辞儀をすると、皆がそれに続く。俺は後ろの方にいるアキのことが気になって仕方がなかったけれど。
「……立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」
そう、じいちゃんが促す。アキのばあちゃんはピクリと眉を動かした。じいちゃんはそれを見逃さなかった。
「棚田の藤倉家の敷居なんぞ跨ぎたくもありませんかねぇ」
せっかく来てくれたのに、じいちゃんがいじわるを言う。
何を余計なこと言っているんだよ!
俺はハラハラしたけれど、アキのばあちゃんはちょっと目を細めただけでそれ以上の感情は出さなかった。
「いえ、せっかくですから上がらせて頂きましょう」
すると、じいちゃんはなんの余裕だか、にこりと笑ってみせた。
「ええ、どうぞ」
ばあちゃんに続き、道添家の家族が続々とうちの居間へ入っていく。最後尾のヒロはアツムとハイタッチしていた。足は大丈夫なのかな。
そうして、机を挟んで藤倉家と道添家が向かい合う形になった。お互い、家族が多いから変な状況だ。ただし、俺の前にアキがいるから、そこは嬉しい。お互いになんとなく照れた。
そのなんとも言えない緊張感に満ちた場で、最初に口を開いたのはアキのばあちゃんだった。
「カケルくんと言いましたね」
いきなり俺を見て、俺を名指しで言ったんだ。
「は、はい」
俺は緊張して姿勢を正した。
「うちのヒロと、それからアキのことを助けてくれたそうで、本当にありがとう」
それは素直な感謝の言葉だった。だから俺もストレートな感謝にちょっとびっくりした。でも、その後に……
「まさか棚田村の子がそこまでしてくれるなんて、思いもよらないところでした」
場が、一瞬で凍った。
いや、ありがとうって言葉を疑うんじゃないけれど、その思いもよらなかったっていうのも本音っぽい。この場で俺がこういうことを言っていいのかわからないけれど、でも、思ったことは口に出さないと伝わらないから。
「棚田とか疋田とか、そういうの関係ないです。放っておけないから動いただけで……」
控えめにそう言った。ばあちゃんは考えの読めない表情を保ったままだった。
「あなたはまだお若いから。けれど、助かりました」
若い? それとこれと関係があるのかな?
よくわからないけれど、うちの親父とアキの父ちゃんの目線がバチバチ当たっている気がする。俺たち世代は昨日で随分打ち解けたから楽なものだけれど……
俺はそこで思いきって発言した。
「俺は知らないことだらけで、なんでこう村同士の仲が悪いんだかも正確には知りません。きっかけはなんですか? それは変えられないことですか?」
じいちゃんははぐらかして教えてくれない。だから、知る機会もなかった。今はそれを知りたいって強く思う。アキのばあちゃんなら、もしかして何か話してくれるんじゃないかって。
でも、アキのばあちゃんは首を横に振った。
「それは、お若いあなたにはくだらなく思えることでしょうね」
くだらないことならやめたらいいのに。喉までその言葉が出かかっていた。でも、それを言ったら、侮辱とか否定とか、そんな意味になってしまうのかもしれない。
どうしたらいいんだろう。この機会を逃したら、もう二度と両家が集まるような場はないんだろうし。
俺が焦る気持ちを持て余していた時、じいちゃんがぽつりと言い出した。
「くだらない。そう思えるようになったのなら、潮時かもしれんな」
「え?」
思わず耳を疑った。じいちゃんがそんなことを言い出したなんて……
アキのばあちゃんも驚きを隠せないみたいだった。
「どれ、ひとつ話してやろうか」
「父さん?」
親父も驚いている。
本気で? じいちゃん、どうしたんだろう?
俺はドキドキしながらその続きを待った。道添家の面々も緊張している。
じいちゃんはゆっくりと語り出す。
「もともとは、語るまでもなく明確であったことなのだが。時代が変わって、真相を知る人間もずいぶん減った。……以前、この棚田村と疋田村は、昔ひとつの『棚疋村』という村だったことは皆知っているな?」
それは聞いたことがある。間には三本の橋が架かっていたって。
「『棚』と『疋』その意味を考えたことはあるか?」
じいちゃんがそんなことを言うから、俺たち孫世代は皆して首を横に振った。意味ってなんだ?
「『棚』は高い位置を意味する。『疋』は引き込む、を暗喩する。川を挟んだ互いの土地は、棚田の方が高い位置にあった。時が経つにつれ、疋田の土地も徐々に工事で底上げして、今では一見しただけではわかりづらいがな」
棚田村の方が高い位置にある?
言われてみると、今回も水の溜まり方が疋田村の方が多かったかもしれない。でも、そんなのは少しのことで、それが何を意味するのかわからない。
俺たちはただ黙ってその先を待った。
「過去に、井鳥川が氾濫した時、当然低い土地である今の疋田村の方へ水が押し寄せた。水が低い方へ流れるのは当然のこと。疋田は水を引き込む土地だった。被害のあった疋田に、棚田の者たちは見舞った。けれど、それさえ当事者たちには理不尽なことだったようだ」
高いところで安全に過ごせた棚田と、水害に遭った疋田。それが亀裂の原因?
アキのばあちゃんも観念したのか、口を開いた。
「疋田からすれば、同じ村の中だというのに、危険な方へ自分たちが追いやられているのですから、当然でしょう。棚田の人々は高い位置から疋田を見下ろし、見下していました」
その発言にトゲがあるのは、その苦々しさをずっと上の世代から言い聞かされてきたからかもしれない。
「疋田から土地の交換を願う人々が出て、棚田も譲らず、村は荒れたそうです。もう、争いのもとがなんであったのかを忘れてしまうほど、互いに争い、いがみ合い、略奪も平気で行われるまでになりました」
争うには理由がある。でも、段々相手が憎くなって、やり込めてやりたい気持ちが育つ。そうしたらもう、そこに善悪もなかったのかな。
今みたいに物が溢れて平和な時代じゃなかったなら、なおさらだ。その感情がずっと尾を引いたってこと?
じいちゃんもひとつため息をついた。
「ひどい時には喧嘩で人死にまで出てしまった。これではいけないと、当時の代表同士が話し合い、そうして決別した。棚田が土地を譲る気がないのなら、疋田は独立して新たな村となる。棚田に協力することは二度とない、とな」
棚田の土地を譲ったら、自分たちが水害に遭うって、そのリスクを承知で取り換えてあげることは難しい。……そうなんだけれど、それは棚田の意見で、疋田からしたら受け入れにくいことだった。それくらい、やっぱり水の勢いが怖かったんだと思う。
「別れた村は互いに今後不干渉の証として、三本あった橋のうち一本ずつを壊しました。そうして、今に至ります。疋田には疋田の意地があり、積極的に土地の埋め立てを繰り返していきましたが」
……それがこの二つの村の事情。
俺たちが今までいくつか聞かされたような適当な理由は、真相を知らない人が考えた推量だったんだろう。
争いを止めるために不干渉を決めた。そういうことなのか?
疋田も昔ほど低くはなくて改善されてきたのに、それでもこの確執だけは残った。これは仕方のない事情だったのかな。人間の気持ちはそう簡単なものじゃないのは俺にだってわかる。
今になって、俺はあの時の偽文書の嘘をいろんな人に申し訳なく思った。ご先祖様だって、好きでいがみ合っていたわけじゃないのに。
「……疋田ではやはり、棚田よりもその意識が強く残っているんだろうな」
なんて、じいちゃんがぽつりと言った。
「棚田は一方的に争いを仕かけられたと疋田を嫌っているのでしょうね」
アキのばあちゃんもそう答えた。
百年以上も続いた確執は、そう簡単にはなくならない。そうなんだけれど、でも、少しでも変わってほしい。俺はそれを強く願った。
場の沈黙が続く。
空気が痛いくらいだった。子供のアツムやヒロでさえ、口を開いちゃいけないって感じているみたいだった。
じいちゃんはなんで今、この話をしたのかな? ずっと話してくれなかったのに。
俺があんまりにも聞き分けがないからかな。だからアキとのことは許さないとか言いたいんだろうか。
そう思ったら、体が畳にめり込みそうなくらいに気が重くなった。
でも、じいちゃんの思惑はそうじゃなかった。唐突に言ったんだ。
「今、この場には互いに七人ずつ、計十四人がいる。これはいい機会だから、聞いてみたい。この村同士の在り方をどう思うのか。このままでいいと思うか、いい加減にいがみ合うのをやめるべきか」
「何を……」
何を言い出すのかと、アキのばあちゃんは驚いていた。いや、ばあちゃんだけじゃない。みんな驚いている。
それでも、俺の答えは決まっている。机の下でグッと拳を握った。力が張りすぎて小刻みに震える。そんな俺を、隣の姉貴がチラリと見た。
「もし、この場に互いの村が交流を始めることを希望する者がいれば手を挙げてほしい」
じいちゃんがどんな思いでこれを切り出してくれたのか、わかるようなわからないような……
でも、これは最大のチャンスだから、俺は誰よりも先に力強く手を挙げた。授業でもこんなに張りきって手を挙げたことはない。
そんな俺を前に、アキもそっと手を挙げた。続けてアツムが。それを見たヒロが。
計四人が挙げることはなんとなく予測がついた。わからないのはその先だ。俺は祈るような気持ちで兄貴と姉貴に目を向けた。そんな俺の方に顔を向けないまま、兄貴が手を挙げた。親父と母ちゃんがそのことに驚いていると、続いて姉貴も手を挙げてくれた。
何かもう、泣きたいような気分だった。今までのどんなことよりも、今二人がしてくれたことが俺にとって嬉しかった。
そうして、アカネ姉ちゃんが苦笑しながら手を挙げ、表情を読みづらいミク姉ちゃんがそれに続いた。
アキの父ちゃんと母ちゃんもびっくりしたような、それでいて予想していたような、そんな複雑な表情だった。それでも、親父たちが手を上げないからか、手は挙がらなかった。アキのばあちゃんも手を挙げない。代が下がるごとに苦労も多かったんだろう。そんな簡単にできる問題じゃないって思うのかな。
大小さまざまな八本の手を眺めながらじいちゃんは少し笑った。
「……八人、か」
八対六。数だけで言うのなら優勢だけれど、そう単純な話じゃないよな?
手がだるくなるほど高く挙げていた俺がじいちゃんの方に首を向けると、じいちゃんは穏やかに笑っていた。
「見事に世代で分かれたなぁ」
なんて、顎をさすりながら感慨深くつぶやいている。ばあちゃんは眉をひそめていた。それに対し、アキの父ちゃんと母ちゃんは申し訳なさそうに見えた。うちの親父と母ちゃんも複雑そうに押し黙っている。
そんな中、じいちゃんは皆に手を下ろさせてからも何故か笑顔でいた。
「若い世代が皆それを望むのなら、去りゆく世代の我々に止めることはできんよ」
え?
思わず耳を疑ったのは俺だけじゃなかった。皆がじいちゃんに顔を向けた。
「古い確執をいつまでも当時と同じ気持ちで引きずり続けることはできん。若い世代には関係のないことだからな。ただし、凝り固まったものを取り除くというのは、並大抵のことではない。このままでいるよりも要らない苦労があるかもしれない。それでも、どうしてもというのなら、わしはもう止めようとは思わん」
じいちゃんがそんなふうに考えてくれたことが嬉しかった。
互いの村の平和のために二つの村を切り離した。そうして、関わらないでいた。それは当時の人たちが考えた末の結果で、それしか道がなかったのかもしれない。
でも、今は違う。状況が変わって、お互いに助け合うこともできるんだって気づけた。今回の騒動は、皆心配のし通しで大変だったけれど、結果としていいこともあったのかな。もちろん、アツムやヒロが無事だったからこそ言えることなんだけれど。
アキのばあちゃんは深々とため息をついた。
「あなた方棚田の人は、高みから私たちを見下していると、ずっとそんなふうに教わって参りました。けれど、そう、疋田の人間には虐げられた被害者意識が根づいているのです」
「虐げられたと言うがな、わしら棚田の人間もまた略奪や謂れのない暴力に苦しんだのだよ」
じいちゃんが少し表情を硬くする。ばあちゃんはそれでも続けた。
「人は皆、己の身内が可愛いのです。大事なものを護ろうとした結果が今の現状でしょう。それはわかっているのです」
あと少し、あと少しで願った未来に手が届くかもしれない。でも、人の気持ちはそう割りきれるものじゃないってこともひしひしと感じた。
その時、兄貴がぼそりと口を開いた。
「身内が可愛いのが当たり前なら、その輪を広げていけたらと思います」
「シノブ?」
母ちゃんが隣の兄貴の言葉に驚いていた。でも、兄貴ははっきりと、まっすぐに顔を向けて続けた。
「ふたつの村がもとはひとつだったというのなら、互いの意識さえ変われば、境界線は消えてひとつの輪の中に入れます。どちらも身内と考えて今後接していくことができたら……と今は思います。もう、お互いをよく知りもしないで嫌っていたような頃の自分には戻りたくないので」
兄貴もそう考えてくれるようになった。それが俺にはとても心強い。
兄貴は軽く腰を浮かせると、自分の手を差し出した。それは正面にいたアカネ姉ちゃんにだ。アカネ姉ちゃんはその意図を酌んでニッと笑ってその手を取った。
俺も兄貴を真似て手を差し出した。そうしたら、アキがちょっと頬を染めて微笑み、それから俺の手を握った。アツムとヒロもそれを真似る。姉貴とミク姉ちゃんも笑って手を取り合った。
そんな様子を、じいちゃんがクク、と小さく笑って骨ばった手をアキのばあちゃんに差し出した。ばあちゃんはびっくりしてその手をなかなか取らない。
その隙に、母ちゃんが勢いよく前に手を突き出す。親父も驚いていたけれど、アキの母ちゃんはうちの母ちゃんと握手を交わしていた。
仕方なくなのか、アキの父ちゃんがオヤジに手を差し出す。親父は流れに飲まれたのか、その手を取った。でも、顔は仏頂面だった。
アキのばあちゃんはずっと繋がる家族たちに観念したのか、じいちゃんの手に怒ったような顔をしながら触れた。それでも、じいちゃんは笑った。
「わしが生きているうちにこんな日が来るとはなぁ」
なんて感慨深く言った。俺にとってもやっとだって思いがあるけれど、じいちゃんは俺の何倍も長く生きているから、思うことはずっと多いんだろう。
「今日、この瞬間から、互いの村が歩み寄れるようにこの場の皆が代表として努力すること。それを忘れずに過ごそうじゃないか」
本当に?
これが俺の見ているご都合主義な夢じゃなければいいのに。
そう思った瞬間、俺の手を握るアキの手に少し力が加わった。アキを見ると、ちょっと涙ぐんで、嬉しそうに笑っている。その様子に、俺は心臓がドキドキ鳴った。すごく好きだって気持ちが募る。
「……藤倉さんが仰るように、去りゆく私がとやかく言っても仕方がありませんものね」
なんてことをアキのばあちゃんが言った。でも、じいちゃんは首を振った。
「いいや、たくさんとやかく言おうじゃないか。昔の過ちを語れるのは我ら先を生きた世代なんだからな。言った上でそれを繰り返さないように願おう」
そんなことを言うから、ばあちゃんは苦笑した。
「それはまた……長生きしないといけませんね」
「ああ、そうだな」
じいちゃんも笑って返した。
長い長い仲違いはこうしてようやく氷解しかかる。まだ、お互いの家がこの結論に達しただけで、村全体にそれを伝えて合意をもらえるかどうかはわからない。
もめるかもしれない。その可能性は高い。
でも、俺は村同士が仲良くなるための苦労なら、どんな苦労もしようってこの時に決めた。




