◇25
もう一度、あの木の倒れそうな道を通るのは嫌だった。今度は避けられるかわからないし。
俺と兄貴も迂回路を選んだ。そっちの道は坂がゆるくくねりながら続いている。帰りは下り坂になるのが嬉しい。疲れているところに上るのは嫌だ。
雨はもうほとんど降っていない。それでも、足元の土は少し柔らかい。泥色に染まったスニーカーは悲惨なものだ。もとの白には二度と戻れないだろう……
そんなことを考えていた俺の隣で、兄貴は歩きながらぽつりと言った。
「お前、あの時よくヒロのところまで間に合ったな。地面は泥でヌルヌルだし、滑っただろ?」
あれは、運よく硬い足場に当たったんだ。
「必死だったし。運がよかったんだよ。俺も、ヒロも」
そうとしか説明ができない。でも、そんなことってあるのか?
今になってちょっと自信がない。必死だったからそう思ったけれど、よく覚えていない。
俺と兄貴が下り坂を抜けると、民家辺りの道に細い川ほどに溜まって流れていた水が随分スッキリしていた。水が引くのは案外早いんだな。もうスニーカーの底に少し引っかける程度の雨水しかない。
そのことにほっとしたけれど、家の中まで浸水していたら掃除は大変だろうな。
兄貴はその水が引いた道を見渡しながら、難しい顔をした。
「なんかさ、今日のことは色々と不思議だな」
そう……そうかもしれない。
ヒロが見つけて追いかけたっていう三本足の蛙は結局、影も形も見当たらなかった。
俺たちはそのまま、疋田村の道を歩いた。その間、雨が上がったせいか、チラホラと住人がいた。村の住人すべての顔を見知っているんだろうな。疋田村の外の人間だって、俺たちをひと目見て判断した。で、嫌な顔をされた。
俺たちは棚田村の村長の身内だから、もしかするとそこまで気づいてのことかもしれない。それでも、俺たちは悪いことをしたつもりはないから、まっすぐ前を見て歩いた。
その途中、俺はそんな疋田村の人たちに笑顔で会釈をしてみた。そうしたら、相手も怯んだ。
こっちが笑えば、相手だって少しくらいは表情を和らげてくれるかもしれないって思ったんだけれど、その通りだった。そんな些細なことがちょっと嬉しい。
兄貴は何も言わなかったけれど、表情はそう硬くなかった。今日のことは兄貴にとっても大きかったんじゃないかな。
井鳥川の水はまだまだ多くて流れも荒い。橋が流されなくて本当によかった、なんていうのはさすがに大げさかもしれないけれど。
そんなことを思っていると、橋のそばの道に車が数台停まっていた。レスキュー隊員の真っ赤な救助車にアカネ姉ちゃんとヒロは乗せてもらってここまで来たんだと思う。その陰になるように停められた白い車のそばにアカネ姉ちゃんが立っていた。窓が開いていて、誰かと話している。
アカネ姉ちゃんが俺に顔を向けた時、唇が俺の名前を口にしたように動いた。その途端、車の扉が開いた。そこから飛び出してきたのは――
モノクロチェックのワンピースを着たアキだった。アキは俺を見つけると、下した髪を揺らして走り出した。アカネ姉ちゃんはそれを苦笑して見送っている。
俺も、体は限界だってくらいに疲れていると思ったのに、気づいたら前に駆け出していた。アキとの距離が五メートル程度になった時、俺は走るのをやめて立ち止まる。なのに、アキは止まらなかった。
救助車の陰になった死角で、レスキュー隊員と話していたアキの父ちゃんと母ちゃんが顔を覗かせた。俺がドキッとしたのもお構いなしに、アキは境界線を飛び越えるみたいにしてやってきた。
「カケルちゃん!」
俺の名前を呼んだ時、アキの目にはいっぱいの涙が浮かんでいた。そんなアキが俺の首にしがみつくようにして抱きついたから、俺は思わずよろけた。心構えがなかった。
踏ん張った俺の耳元で、アキが泣きながら何度も俺の名前を呼ぶ。
「アキ……濡れるから、な」
俺は今、雨に濡れてびしょびしょなんだ。それから――皆見ている。嬉しい気持ちと照れと、アキの両親の目。色々あって素直に嬉しいだけじゃすまなかった。でも、アキは世界に俺たちしかいないみたいに腕に力を込めた。
「カケルちゃん、ごめんね。ヒロのこと助けてくれてありがとう。それから、無事でよかった……」
いっぱい、溢れる気持ちを伝えようとしてくれる。そんなアキのことが俺はすごく愛しくて、抱き締めたい衝動が湧いたけれど、アキの両親が見ているっていう点が俺の理性を保たせていた。
それでも俺は泣いているアキに言わなくちゃいけないことがあるって、強く思った。今はもう、アカネ姉ちゃんがあのメールを消してくれてよかったって、そんなふうにさえ思った。大事なことはやっぱり、直接伝えなくちゃいけないんだ。
俺の心音がアキに伝わるかな。凄く緊張する。
それでも、今しかない。今、言わなくちゃ。
「アキ、俺、アキのことが好きだ」
アキの泣き声が驚いて止まった。遅れてヒク、としゃくり上げる声がする。アキはおずおずと俺の首から腕を離した。至近距離のアキの顔。泣き顔を見たのは何度目かな。
でも、アキの泣き顔も嫌いじゃない。
「カケルちゃん……本当に?」
「疑うなよ。そんな何回も言えねぇからな」
本当に、もう今日は色んな意味で疲労困憊だ。でも、アキの柔らかい声が俺にとっては癒しだった。
「うん……うん! ありがとう! わたしも大好き!」
泣いていたアキが笑った。その複雑な表情に、俺の心臓が大きく跳ねた。この瞬間を、多分俺は一生忘れない。
好きって。アキがそう言ってくれたから。
正直、この時はもう二人の世界だった。兄貴がボソッとつぶやいた声で現実に引き戻される。
「カケル、邪魔して悪いが、俺は先に帰った方がいいのか?」
傘二本を手に立ち尽くす兄貴に、アキも焦って俺から更に距離を取って頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。わたし……その……」
あ、ちょっとパニックになってきた。アキが焦っているのが見てわかる。
そんなところも可愛いんだけれど。
そうしていると、アキの両親が俺たちの方に近づいてきた。すごい剣幕で怒鳴られた覚えしかない俺が身構えたのも無理はない。アキとイチャついていたんだ。怒るよな?
でも、今回は怒鳴られることはなかった。硬い表情のまま、アキの父ちゃんは俺に言った。
「ヒロを助けてくれたそうで、ありがとう」
アキの母ちゃんも俺に頭を下げた。
ああ、そっか、もうアキのことで頭がいっぱいだったけれど、そういえばそうだったっけ?
アキの父ちゃんはそれから、さらに続けた。
「明日の晩、改めてお宅に伺わせてもらう。こちらからも少し話がある」
え? 話?
なんだろう。改めてとか言われるとなんか怖いな。
「わかりました……」
それだけ返事をした俺。アキの両親はアキを促して帰ろうとする。その時、アキが振り返って少し笑った。その表情がどこか晴れやかで、そう悪い話じゃないのかなって希望を持てたりする。
道添家の面々が去っていくと、兄貴は俺をじぃっと見た。その視線が痛い。
「カケルがなぁ」
しみじみ言わないで。
今になって恥ずかしくなって、俺は余力を振り絞って駆け出した。橋を渡って、いつもの棚田村だ。へろへろになって走っていると、すぐに兄貴が追いついてくる。兄貴は面白がっているのか、ニヤニヤしながら傘で俺を追い立てた。ひどい。
棚田村はすでに地面にチラホラ水溜まりがある程度だ。水はけがいいのは川が近いからかな。
でも、もうこんなのはこりごりだ。




