◇23
兄貴はそれから一度家に電話をした。子供たちが全員戻ってこない状況に母ちゃんが不安がっているだろうとのこと。そういうところに気がつく兄貴は俺よりもやっぱりちょっと大人だ。
疋田村の方にいるとは言わない。ただ、もう少しだけ見て回るって曖昧なことを言っていた。慎重な兄貴が言うから、母ちゃんは信用してくれたんだと思う。
雨脚は弱まらないまま、俺たちは歩く。もうスニーカーなんて履いてきた馬鹿はどこのどいつだって自分でも思う。足首までどっぷり水に浸かっている状態だ。そんな状況だから歩きづらくて、兄貴は姉貴を支えながら歩いた。
本来ならもっと早く着けるような場所だったんだと思う。溜まった水のせいでいつもの何倍も時間がかかる。まるで靴に重りをつけているみたいだ。
段々、俺たちのいる場所が低く下がって感じられた。道に木が生えているからかもしれない。出歩く人はもういないみたいだった。俺は声を上げてみた。
「アツムー」
ザーという雨の音が邪魔をするけれど、それでもその声はアツムに届いた。黄色の傘が茂みからパッと花咲いたみたいに現れた。あれはアツムの傘だ。
「アツム?」
俺は木のそばの茂みへ急ぐ。
「カケル兄ちゃん?」
茂みのそばにアツムが傘を差してポツリと立っていた。服はずぶ濡れだ。顔も、今にも泣き出しそうに見えた。
「アツム! こんなところにいたのか」
俺がとっさに大きな声を出したせいか、アツムはさらに泣きそうな顔になった。
追いついてきた兄貴と姉貴もほっとした様子だった。
「無事でよかった」
「アツム、どこか痛いところはない? 大丈夫?」
優しい言葉が、アツムの張り詰めた気持ちをほぐしたのか、アツムはついに泣き出した。両手で目を擦るから、傘が転がって受け皿みたいにして雨を集める。俺はアツムの傘を拾って水を捨てて、わんわん泣くアツムの上に掲げてやった。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
そんなふうに謝るなら、出かけちゃいけなかったのはわかっていたんだろう。それも、疋田村となれば誰もいいとは言わない。だからアツムは無断で出かけた。
姉貴は泣き止まないアツムの肩を抱いて優しく摩っていた。
「詳しいことは帰ってから聞こう。今はとりあえず帰らないと」
兄貴もそっと、アツムを刺激しないような口調で言った。
「うん、帰りましょう。ね?」
姉貴がアツムの背中をそっと押す。その時、アツムは勢いよく上を向いた。泣いたせいでぐしゃぐしゃの顔で声を張り上げる。
「駄目だよ、まだ帰れない!」
「どうしたんだ……?」
その剣幕に驚いた俺たちに、アツムはさらに声を高くした。
「だって、ヒロが見つからないんだ! 待ち合わせしたのに、いなくて……」
アツムは再び喋れないほどに大声をあげて泣いた。
ヒロって……アツムが出かけたのは道添家のヒロとの待ち合わせだった? 二人のどこに接点があったんだか知らないけれど、どうやら仲良くなったらしい。
いや、親しくなるきっかけなんてそんなものだ。俺とアキだってそうだったんだから。
さっきまで優しかった姉貴の声に苛立ちが混じる。
「あんたね、疋田村の子とは仲良くしないようにって言われたでしょ?」
そんなの、子供には関係ない。仲良くするのがどうしていけない? 理不尽だって、俺と同じ苦しさをアツムも感じたのかな。
そう思ったら、俺も黙っていられなかった。
「そういうこと言うなよ。大体今、それどころじゃないだろ?」
俺がアツムを庇うと、その間に兄貴がスマホでミク姉ちゃんと連絡を取っていた。
「――ああ、藤倉だ。うちのアツムは無事見つかった。林に近い道の脇、木のそばに。――まあ、そうだな。それで、そっちの弟と会う約束をしていたそうだ。――それは今する話か? 一応連絡はしておいたからな」
兄貴の声が冷たい。でも、電話を切った後もスマホを少しだけ見つめていた。
そう思ったら、顔を上げた。
「さ、帰るぞ」
あっさりとそう言った。俺は思わず首を傾げた。
「あ、うん、アツムを送ってこないとな。兄貴と姉貴で送ってくれたら、俺はヒロ捜しを続けるから」
すると、今度は兄貴が顔をしかめた。
「何言ってるんだ? アツムは見つかったんだから、お前も帰るんだ。一応状況は道添に知らせたんだから、救助を要請するだろうし」
その発言が俺にとって大きな衝撃だった。
兄貴だって姉貴だって十分優しい人間なのに、今、ここで自分たちには関係ないなんて線を引く。
……小さい頃から疋田村は敵、みたいな教育を受けて育ったのは俺たちのせいじゃない。でもさ、こんな状況でまでこだわるのはおかしい。そのおかしさに、兄貴も姉貴も深入りを避ける。
「救助を待ってる間に何かあったらどうするんだよ?」
感情で喉が詰まって裏返りそうになる。それを抑えながら、やっとそれだけ言った。でも、兄貴は冷めていた。
「お前が下手にうろうろしても、ミイラ取りがミイラになるかもしれないだろ。いいから、帰るぞ」
「……アツムが見つかったからって、もううちは関係ないなんてオカシイだろ! アツムもヒロもただの子供で、差なんかないんだ。なんかあったら家族が悲しむのはおんなじだから、俺はそういうの嫌だ!」
力いっぱい言い放った。兄貴の後ろの方に人影があって、それが道添家の姉ちゃんたちだってぼんやり見えた。
「それなら僕も残る! ヒロとは友達になったんだから!」
アツムまでそんなことを言い出した。ヒロに何かあったら、アツムだってそれを一生抱えて生きなくちゃいけない。そんなふうにはしたくない。
それに、アツムとヒロは昔の俺たちみたいなものだ。
お互いがもっと一緒にいたかったのに、それができなかった。あの時の悲しさを俺はまだ覚えているから、アツムとヒロの友情も守ってやりたい気持ちになった。
「アツムは兄ちゃんに任せとけ! 絶対見つけてやるから!」
俺はアツムに傘を返すと、力いっぱい駆け出した。そうは言っても、水が俺の動きを鈍らせるんだけれど。
「こら! カケル!」
兄貴の怒鳴り声が聞こえたけれど、振り返らない。こんな中、一人でいるとしたら、ヒロだって心細い思いをしているはずなんだ。
アツムとのことがなくったって、ヒロはアキにとって大事な弟だから、アキが悲しむのは俺だって嫌だ。
バシャバシャと、水を跳ね上げて先を急ぐ俺に誰も追いつかなかった。追いかけてきているのかさえわからないけれど。
俺は声を張り上げて叫んだ。
「ヒロー!」
そういえば、顔をよく知らない。上の姉ちゃんたちは何度か顔を合わせていたけれど、ヒロは年が離れているから、あんまり会う機会もなかった。あの姉妹の誰かに似ていればわかると思うけれど……
雨水が、俺のくるぶしを越えている。それでもまだ雨脚は弱まらない。これじゃあこの辺り一帯は浸水してしまうんじゃないだろうか。家に戻ってないけれど、俺の家も似たような状況なのかな。
井鳥川が氾濫したらどうしよう。大昔、そういうことがあったっていうけれど、俺が産まれるよりもずっと前のことだ。今になってそんなの経験したくもない。もしそうなったら、棚田も疋田も家が流されて仲違いどころでもないのに。
古臭いしがらみのある村だけれど、それでも俺の故郷だから、そんな目には遭ってほしくないんだ。
「ヒロー!」
もう一度叫んだ。木が多いから、枝葉からまとまって落ちる雨がうるさい。俺はしつこいくらい何度もヒロのことを呼んだ。そうしていたら、後ろから声がかかった。
「カケル!」
兄貴だった。アツムを送っていったんじゃなかったのか? 俺が思わず唖然としてしまったのは、兄貴が来たからじゃない。兄貴の隣にいたのは姉貴じゃなく、アカネ姉ちゃんだったから驚いた。
「ヒロは?」
アカネ姉ちゃんが強張った顔で俺に訊く。
「まだ見つかってない……」
「そうか」
と、アカネ姉ちゃんはため息をつく。兄貴はそんなアカネ姉ちゃんを尻目に、俺につぶやいた。
「アツムはヒカルと道添の次女とで送ってもらった」
「へ? 二人で?」
こんな天候だからなるべく固まって動いた方がいいとは思うけれど。
姉貴とミク姉ちゃん、道中喧嘩しているんじゃないか? いや、ミク姉ちゃんが俺の家に行ったってことだよな? それ、よく承知したな。
そうしたら、アカネ姉ちゃんが難しい顔をして言った。
「ヒロを捜してもらっている以上、今はガタガタ言わない。……頼む」
あの勝気なアカネ姉ちゃんがそんなことを言った。背に腹は変えられないってヤツかな。今はヒロを見つけることが先決だから。アカネ姉ちゃんは悔しいだろうけれど、わかっているんだ。男の俺や兄貴の方が体力もあるから、ヒロを捜す確率が上がるってことを。
だから、ヒロのために渋々頭を下げた。
それがわかるから、絶対見つけないとと思った。
「うん、急ごう」
それにしても、ヒロはどうしてこんなに家から離れたんだろう。普段、ここまで来ているものなのかな。アツムがいた場所から考えると、少し遠すぎるような気がした。
もしかすると、雨がすごいから道が川になって、パニックで動き回ってしまったのかな。それとも、俺たちは的外れな方角を捜しているのか。
「こっちの先には何があるんだ?」
俺が訊くと、アカネ姉ちゃんは少し困ったような顔をした。
「何というか……木が生えてるくらい」
その時、兄貴は歩きながらぽつりと言った。
「これだけ雨がひどいと、土砂崩れになったりしないかな。山ほどひどくないだろうけど、多少の段やら盛り土はあるし」
怖いことを言った。ただでさえ雨で体力を奪われているアカネ姉ちゃんが青ざめた。
「土砂崩れ……」
青い唇でそうつぶやく。その悲壮感に俺は慌てて割って入った。
「まだ大丈夫だって。そんな音がしたらさすがにわかるだろ!」
でも、急がないと。それだけは確かなことだ。
「ヒロー!」
俺が叫ぶより、アカネ姉ちゃんが呼んだ方がヒロも反応するだろう。何度か呼んだ後、ふと人の声がした気がした。思わず振り返ったけれど、兄貴やアカネ姉ちゃんの声じゃない。もっとか細い声だった。
俺はとっさに立ち止まって耳を澄ませた。方角が、雨音のせいで絞りづらい。
アカネ姉ちゃんが木々の向こう側を指さして叫んだ。
「いた!」
そこは、雨のせいで泥の川が流れる斜面だった。いかにも地面が緩そうだ。
ヒロは黄色のレインコートを着てへたり込んでいる。ヒロのいる場所だけ島みたいに見えた。
「ヒロ!」
アカネ姉ちゃんが叫んで駆け寄りかけたけれど、それを兄貴が止めた。
「あそこ、危ないんじゃないのか。慎重に行かないと。回り込める道はないか?」
こういう時、兄貴の冷静さに助けられる。来てくれてよかった。俺だったら、ただ突っ込んでいる。
アカネ姉ちゃんは少しだけ考えてから言った。
「なくはないと思う。でも、時間がかかるかも……」
「そっちの方が安全なら、ヒロをそっちに向けて歩くように誘導できるか?」
「でも、あの辺り水の流れができてるし、ヒロがそこを越えていけるかな? 誰か一人くらいはあそこへ渡らないと……」
自分がそれをするつもりだったんだろう。アカネ姉ちゃんは叫ぶ気力もないのかぐったりしているヒロを見据えていた。兄貴はスマホを取り出して電話をし出した。それが救助要請なんだってことに会話の内容で気づく。
「――はい、急ぎでお願いします」
これでもう安心? ……いや、まだだ。本当に助け出されるまでは終わりじゃない。まだ気を抜いちゃ駄目だ。
俺がそう気を引き締め直した時、木と木の間で嫌な音がし出した。メキメキと、木が割れるような、そんな音だ。――まさか。
そう、そのまさかだった。空を覆う天井みたいだった木のうちの一本が傾いたんだ。アカネ姉ちゃんもそれに気づいて甲高く叫んだ。
俺はもう、後も先も考えられなくて、傘を放り投げてヒロの方へ駆け出していた。地面はぬかるんでいる。それを覚悟して踏み込んだはずが、踏み出す先、飛び越えた先に運よく岩があって踏ん張ることができた。……運がいいでは済まない。なんでこんなに岩があるんだろう?
わからないけれど、俺はヒロのところまで辿り着くことができた。アキのピンチに発揮したみたいな火事場の馬鹿力だ。
「カケル!」
兄貴の声が響いた。その時にはもう、俺はヒロを小脇に抱えて逃げていた。ヒロは軽かった。アツムよりまだ軽い。小柄な子で助かった。
ドン、と地震のような地響きがして、足からの振動が脳天に駆け抜けるみたいだった。でも俺はなんとか立っていることができた。それもこれも、逃げ足の速さのおかげだ。
遠ざかった兄貴とアカネ姉ちゃんとは会話も困難だ。
「おーい! 兄貴―!」
手を振って無事を知らせるのがやっと。びっくりしたヒロが俺に抱えられたままシクシク泣いていた。鳴き声も大人しいな。
そうしていたら、スマホが鳴った。俺は前後左右を気にしながらなんとか電話に出る。兄貴だった。
『カケル、無事だな?』
「うん、ヒロも無事だ」
『道添が言うには、そのまま奥に進むと石段があって、高いところへ出るから、しばらくそこでヒロと待機していろ』
「わかった……」
『無事に辿り着けたら一度連絡をよこせよ』
「うん」
石段があるってことは、その先に何あったんだろうな。ちょっと立地が不便すぎて人が来なくなって廃れたのかな?
俺は泣き続けるヒロをいったん下した。そうして、おんぶに切り替える。
しゃがんで背中を向けても、ヒロは乗ってこない。傘を放ったせいでびしょ濡れの俺の背中は居心地が悪そうだからか。ヒクヒクと泣いている声だけが聞こえる。
「おい、ヒロ。背中に乗るの嫌だったら歩いてもいいんだぞ」
そう言っても、ヒロは相変わらずヒクヒク泣いていた。
「こけた時にひねったから、足いたいよぉ」
うーん、本当にアツムとはタイプが違うな。むしろアキと似ているのかも。そう思ったらやっぱり放っておけない。
「俺はカケルっていうアツムの兄ちゃんだ。だから、大丈夫だぞ」
振り返って精一杯笑ってみせた。そうしたら、ヒロは泣き顔でじっと俺を見た。
本当に女の子みたいな顔をしている。アキと一番似ているかも。
「アツムおにいちゃんの?」
おにいちゃん? アツムが?
……うちでは末っ子だけれど、ヒロからしたらひとつくらいは年上だから、アツムはお兄ちゃんなのか。末っ子のアツムにしてみたら、その扱いはすごく嬉しかったんじゃないかな。
アツムの名前を出したら安心したのか、ヒロは俺の背中に体重を預けた。ほっとして俺はヒロを負ぶって歩き出す。
アカネ姉ちゃんの言う石段はどこにあるんだろう。歩けるところは限られているから、俺は道らしきところを探して先に進んだ。傘はないけれど、木が傘の代わりになって雨を少しくらいは防いでくれていた。
俺はヒロの体温を背中に感じながら訊ねる。
「なあ、なんでこんなところにいたんだ? 皆心配するだろ?」
アツムまで会えなかったことを思うと、待ち合わせ場所とは違う。だから俺はそう訊ねた。
ヒロはすぐには答えなかった。言葉を探しているのか、それがヒロのテンポなのかはよくわからない。ヒロはぽつりと言った。
「蛙さんが」
「え?」
「大きな蛙さんがいたの。それを追いかけていたら……」
こんなところに出ちゃったと。まあ子供らしい理由かな。こんな状況じゃなければいいんだけれど、さすがに何度もこんなことをしていたら危ない。
「蛙な。いいんだけどさ、さすがに今日みたいな日はやめとけよ。危ないからな」
たかが高校生が説教するなって思うかもしれないけれど、それでもヒロよりは十年以上生きているんだから、これくらい言ってもいいだろう。
そうしたら、ヒロは俺の背中でバツが悪そうに身じろぎをした。
「珍しい蛙さんだったの」
ヒロは姉三人に囲まれて育っているせいか、男の子にしては優しい喋り方をする。だから俺もなるべく丁寧に返す。
「珍しかったのか。どんなんだった?」
すると、ヒロは頭ごなしにくだらないとか言われなくてほっとしたのか、少し饒舌になった。
「うん。あのね、赤っぽい蛙さんでね、足を一本どこかに忘れてきちゃったみたいだった」
「え?」
それは――まるで、あの蛙の神様みたいだ。
「後ろ足が一本?」
「うん、そう! でも、追いつけないままぴょんぴょん跳ねてどこかに行っちゃった」
ぴょんぴょん跳ねて……
俺が知っている蛙の神様は石でできているから、そんな身軽には跳べない。でも、なんだろう、この符合。不思議だ――で片づけていいものだろうか。




