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蛙の神様  作者: 五十鈴 りく


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19/30

◇18

 ――朝になったんだろう。


 雨ばっかりで空も暗くて、時間の感覚はよくわからない。でも、蔵の戸が開いたから朝だってわかった。


「カケル、もういいから出なさい。学校に遅れるし……」


 母ちゃんが俺を気遣いながら戸口にいる。

 もういいって、何もよくない。薄暗い中で見えたかどうかもわからないけれど、俺は母ちゃんにもすごく反抗的な目をした。母ちゃんの視線は一度、手をつけなかったおにぎりに向いた。

 俺は無言で立ち上がると、そんな母ちゃんの横をすり抜けて外に出た。雨は小降りだった。


 母ちゃんは蔵の前に俺のスニーカーを持ってきてくれていた。俺はそれを引っかけると、家に入らずにそのまま駆け出した。後ろから母ちゃんが俺を呼ぶ声が追いかけてくるけれど、俺は一切振り返らなかった。


 ヨレヨレの伸びたTシャツと殴られて腫れた顔。誰にも見られたくない情けない恰好のまま、俺は家を飛び出した。雨が邪魔になるどころか、今は思いきり濡れたい気分だった。全力で走って、そうして俺はいつもの橋の下に逃げ込んだ。


 今日はもう学校にも行かない。皆勤賞なんて要らない。

 もういい。色んなことに自暴自棄だった。

 川辺の砂利が尻に痛い。それでも俺はその場で膝を抱えて座り込んだ。


 あんな家はもう嫌だ。頭の固いじいちゃんや親父に支配される子供の自分も嫌だ。

 今すぐにでも出ていきたいのに、一人で生きられない自分だってこともわかっているから苦しい。


 八つ当たりみたいにして川辺の砂利を叩いても手が痛いだけ。それでも、そうしていないと気分が治まらなかった。




 その日、家族は俺を捜しには来なかった。捜していたんだとしても、こんな暗いところにいると思われなくて捜し出せなかっただけなのかはわからない。


 うちには兄貴がいるから。俺みたいに馬鹿なことをしない立派な長男の兄貴が。

 アツムだっているし、俺なんていてもいなくてもそんなに変わらないんだろう。

 このまま川に流れてどこか遠くに行きたい……


 ふと、あるはずのない視線を感じて振り返る。そこにいるのは蛙の神様だけだ。石でできた神様は、いつもと変わりない。

 頼れるものが何もない俺は、蛙の神様に両手を合わせながらぼんやりと祈った。


 早く仲違いが終わって、ふたつの村がひとつになりますように――

 そうなってくれたらいいのに、そんな日は来ないのかもしれない。




 その日、降水量はそれほどなかった。でも、一日降り続いていたんだから、川の水嵩は増していた。中洲の部分があんまり見えない。


 日が暮れても橋の下でひたすらぼうっとしていると、石段を下りたすぐのところに女の人がいた。シルエットがほっそりとしているから男じゃないのはすぐにわかる。


 でも、それはアキじゃなくてうちの姉貴だった。銀行の制服のまま、姉貴はそこにいた。


「こんなところに!」


 俺を見つけるなり、姉貴は怒鳴った。俺は空腹で力が出なかったこともあって、とっさに走ることもしなかった。ただ顔を背けた。

 そうしたら、乱暴な姉貴は俺の頭を拳骨で殴った。


「いい加減にしなさい、カケル!」


 俺は姉貴にまでそんなふうに怒られる筋合いはないと思う。

 だから顔も向けないで、うるせぇなってつぶやいた。そうしたら、もう一度殴られた。


「あんたにはあんたの言い分があって傷ついてるのかもしれないけど、あんたがそんな拗ねたことばっかりして、お母さんがどんな思いでいると思うのよ」


 そんなこと知るかって怒鳴ってやろうと思った。

 でも、顔を向けた時、姉貴の顔を見たら何も言えなくなった。男より逞しい精神をしている姉貴なのに、泣いていた。

 いつもなんだって平気だって顔をして、女の子らしいところなんて見られないのに、こうして家族がバラバラでいることが姉貴にはつらいのかな。


 俺だってつらい。だから泣き言みたいなことしか言えなかった。


「俺、反抗心とかそんなことでアキと仲良くしたいんじゃない。アキがどこの子か知らないような頃からずっと前から好きだったし、村同士のこととか、そんなの、知るか」


 また、馬鹿って殴られるだろうと思いながら言った。でも、姉貴はもう殴らなかった。その代わり、俺の首根っこに抱きついて、そうしてやっぱり馬鹿って言った。


 その後はもう、姉貴が泣くから俺はもう拗ねたこともできなくて、姉貴に手を引かれながら家に戻った。




 じいちゃんも親父も、俺に謝れとは言わなかった。その代わり、何か声をかけてくることもなかった。俺が口を開くまで、多分それは変わらない。


 ザッとシャワーだけ浴びて部屋に戻ると、机の上にフタをされたどんぶりが載っていた。母ちゃんが置いてくれたんだろう。俺が居間でそろって食事を取ろうとしないだろうってことを先に読んでいたのかな。

 さすがに丸一日食べていないのはつらい。でも、こう与えられたものを食べると、理不尽さに屈したような気分にもなる。


 体は食べたいって思って手が出る。でも、脳から食べるなって指令が出て手が止まる。

 それでも結局、俺はどんぶりのフタを開けた。そこからホカホカとあたたかな湯気が上がった。卵とじのカツ丼の上に彩りよく三つ葉の葉が飾られている。絶対美味いのはわかる。でも、と意地が素直に箸まで手を伸ばさせない。


 食べずにまた突き返して、それでこの冷めたどんぶりを見て母ちゃんがどんなふうに思うのか。姉貴はそれを言うんだ。


 小さな確執の種がぐんぐん育って、そうして根を張って刈り取れないような大樹になる。棚田村と疋田村がそうなんじゃないのか。

 俺は椅子に座ると箸を手に取った。そうして小声で頂きますと言ってカツ丼を食った。空っぽの腹にあたたかさが染み渡る。


 俺は母ちゃんに八つ当たりしたいんじゃない。もっと大きくて理不尽なものに怒っている。少なくとも俺はそのつもりだった。


 食い終わってしばらくして、俺はどんぶりを下げに台所へ行った。じいちゃんは縁側にいなくて、親父は風呂に入っている。


「ごちそうさま」


 俺がそれだけをにこりともしないで言ったら、洗い物をしていた母ちゃんは驚いて振り返った。でも、ちょっとだけ目に涙が浮かんでいた。


「ううん。そこに置いておいて。美味しかった?」

「……うん」

「そう、よかった」


 母ちゃんは学校を休んだとか、そういう説教臭いことは言わなかった。とりあえず、俺が家に戻って飯を食っただけでほっとしているみたいに見えた。

 そんな母ちゃんの様子に、俺は罪悪感らしきものも覚えた。姉貴が言ったせいもある。


 アキは――家族の中でこういうことが起こるのを恐れていたんだ。

 でも、俺がこれを回避するためにアキみたいな子は好きじゃない、あんな子知らないとか、そういうふうにはその場しのぎでも言いたくない。

 それで一時的に丸く収まっても、アキに対して苦しい気持ちが湧いてくる。実際、アキはそうだったんだろう。


 俺は母ちゃんに何を言っていいのかもわからなくて台所を出た。頭の中がぐちゃぐちゃで、明日は学校へ行かないとと思うのに、授業なんてまるで頭に入らない気がした。


 廊下を歩いていると、背後から軽い足音がした。アツムだと思った。でも、振り向かなかった。アツムはまだ小さいから、俺の事情や悩みを打ち明けられる存在じゃない。

 俺が振り向かないからか、アツムは俺の背中に向かってナントカいう必殺技名を叫びながら突進してきた。この状況ではさすがにないだろうと思っていただけに、全然構えていなかった。いてぇし。


「わはは、オレサマに敵うと思ったか」


 なんて、例の河童ライダーになりきった台詞を言って笑っている。いつもアツムはこうだ。いつもと変わりない。なんにも変わらない。――変わったのは俺だ。

 そんな他愛のないアツムのいたずらに、俺は笑ってやるだけのゆとりがなかった。


「ふざけんな!」


 イラッと瞬間的にアツムの頭を殴った。俺が本気で反撃してきたことに、アツムはかなりびっくりしたみたいだった。

 今まで、なんだかんだいっても十歳も年が離れているんだから、常に手心を加えていた。でも今はあんまり加減しなかった。痛かったと思う。


 アツムは驚きから覚めて、そうしたら痛いが先に立ったんだろう。見る見るうちに目に涙を溜めて、そうして声を上げて泣き始めた。先に手を出したのはアツムだとか、そんな言い分は通らない。


「ちょっと、何やってるの!」


 姉貴がすっ飛んできてアツムを抱き締めながら頭を撫でた。


「アツムに当たるのやめなさいよ!」


 別に、アツムがちょっかいかけてこなかったら何もしなかった。でも、結果的に悪いのは俺なんだ。八つ当たりしたようにしか見えないんだろう。

 アツムはまだ七歳だ。空気なんか読めなくったって不思議じゃない。

 そう思ったけれど、それは違った。


「あんたが元気ないから、アツムなりに元気づけたかったのよ。あんたがいない時、アツムはずっとあんたのこと気にしてたんだから。大好きなおかずもあんたにあげるって、食べずに残して待ってたの。なんにもわかってないわけないじゃない」


 いつも兄だからって敬ってくれるわけじゃないくせに、知らないところでそんなことをしていたりする。ふざけてじゃれつけば、いつもの俺に戻ると思ったのかな……


 家のことに翻弄されているのは俺だけじゃなく、姉貴もアツムも一緒で、それを自分だけのことみたいに感じている俺の方が子供なんだ。


「……ごめんな、アツム」


 アツムはヒクヒクとしゃくり上げて返事をしなかった。俺は、アツムと一緒に泣きたい気持ちになった。

 傷ついたから傷つける。その連鎖がどこまでも止まらない……


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