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蛙の神様  作者: 五十鈴 りく


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18/30

◇17

 俺はその日、土曜日の昼に何気ないふうを装って、縁側のじいちゃんのそばへ行った。その日は朝からというよりも、昨日の晩から雨が降り続いていた。

 その雲行きをじいちゃんは心配そうに見上げていた。


 いつもなら嘘は苦手だ。上手くもない。

 でも、この時の俺は固い決意を持って挑んでいた。だから簡単に見破られるようなヘマはしなかった。厳しい表情でそこに座った。

 俺の様子がおかしいことにじいちゃんはすぐに気づいた。


「カケル? どうした?」


 雨音と俺の心音と、うるさいのはどっちだっただろう。

 俺は冷たくなった指先でじいちゃんの方にあの偽文書を押し出した。


「あのさ、これ……」


 じいちゃんの顔から表情が消えた。ただ色の薄い目をゆっくりと瞬かせている。

 俺は用意してあった嘘を並べた。


「先週、トノと蔵で本を読んだ時に見つけたんだけど、字が昔の書き方で意味がわからなくて、ちょっと調べてから見せようと思ったんだ。じいちゃんは読める?」


 珍しく胃がキリキリと痛んだ。でも、それを押さえつけるのは、これは悪い嘘じゃないって思いだけだった。皆で仲良く平和に暮らせるなら、方法なんかどうだっていい。

 俺は必死でそう思った。

 そうしていると、じいちゃんがぽつりと言った。


「蔵のどこにあった?」

「タンスの隙間」


 そんなはずはないと突っ込まれることも考えた。俺よりも蔵の中を把握しているじいちゃんだから。でも、トノと一緒に蔵を見て、ここならわかりにくいんじゃないかと思える場所だった。

 じいちゃんは、意外なくらいあっさりとつぶやく。


「そうか。カケルには読めたのか?」

「う、うん。調べて読んだ」

「じゃあ、どう思った?」


 そんなふうに訊かれるとは思わなかった。これは不意打ちだ。思わず焦りそうになったけれど、ここで踏ん張れなきゃ意味がない。俺は正直な気持ちを伝える。


「このままいつまでもいがみ合ってるよりは仲良くしたいと思うよ。大昔に何かあったんだとして、それ、いつまでも引きずるほどのことなのかがわからない」


 昔からそういうことを言うと怒られた。お前は何もわかってないって。だから言わなくなった。気持ちはずっと変わってないのに、言えなかった。

 だからこれをじいちゃんに言うのは、俺にとってもトラウマを乗り越える勇気が要った。


 それでも、じいちゃんは怒っている感じじゃなかった。何か疲れたような、ぼうっとした様子だ。

 これがご先祖様の意志だと信じたから? だから怒らないのか。


「確執の根は深い。そう簡単なことではないからな……」

「簡単じゃなくても、時間がかかっても、歩み寄る姿勢でいないと向こうだって変われないよな?」


 手に汗をかく。苦手な嘘をつくのは苦しい。これが上手くいったらもう、嘘なんか金輪際つきたくないと思うのに。


 じいちゃんは俺が感情を抑えているのに勘づいたのかな。それとも、じいちゃんもご先祖様の文書なんてものが出てきて、この時ばかりは冷静じゃなかったのかもしれない。


「カケル、このことはまだ誰にも言うんじゃないぞ。しかるべき時を見計らって、わしから家族に話す。いや、うちの家族だけの問題でもない。村の人たち皆が左右される問題だ」


 じいちゃんの言葉に、俺は体がずっしりと重たくなったような感覚がした。

 この変化にはたくさんの人を巻き込む。俺は今後、その責任を抱えていかなくちゃいけないのかな。……いや、今はもう悪い方に考えるのはやめよう。

 長かった仲違いを終えて、皆で仲良く過ごせる。それだけを願おう。


「うん、わかった……」




 じいちゃんの言う、しかるべき時ってのがいつのことなんだかはわからない。でも、早くしてほしいとひたすら考えていた。じいちゃんの動きを気にして、じいちゃんが親父に声をかけている時は思わず聞き耳を立ててしまいたくなる。


 多分じいちゃんは俺がやきもきしているのもわかっているから、俺にわかるような時にあの話を親父にしたりはしないんだろうけれど。


 早く、早く。

 気持ちだけが焦る。学校で、トノにあの偽文書をじいちゃん相手に使ったことを報告した。トノの眼鏡の奥の目が少し揺らいだ。でも、トノは静かにそうかと言った。


「皆仲良く。それができたらいいのにな、どうしても人間の歴史には争いとか差別とか軋轢とか、そんなものが絶えないからな。当事者たちだって疲れても止められないことってあるんだろうから、これがきっかけになればいいけど」


 大人びたトノの言葉。たくさん本を読んで色んなことを知っているトノだから、考えることも多いんだろう。


 でも――

 仲良く、なんて口で言うのは容易いけれど、人間には感情がある。その感情が時に川の濁流みたいになって押し寄せて、そうした時、歴史の中で戦争なんかの大惨事が起こったんだ。どうしようもなく抑えられない感情がぶつかり合う。俺はまだ、そんな事態を経験したことはなかった。

 今後も、できればしたくなかったんだけれど……




 あの偽文書をじいちゃんに渡して、それから三日後のことだった。

 晩飯の少し前に来客があった。夜になっても、村長のじいちゃんのところには何かと人が訊ねてくることが多い。だから最初は気にしなかったものの、何か――いつもと違う何かを俺は肌で感じた。


 最初はボソボソ、と玄関先で聞き取れないような声がしたかと思うと、時折その声は感情的に裏返り、そうしてまた静まり返る。俺はその不穏な空気に思わず居間から玄関先に顔を出した。


 開け放たれたままの戸の向こうで雨が降っている。来客の濡れた傘が三和土たたきに水の染みを作っている。

 玄関先にいた夫婦らしい二人のうち、旦那さんが俺の方に目を向けた。それは厳しく、ギッと睨むような目つきだった。いきなりすぎて俺は蛇に睨まれた蛙状態だった。


 親父と同世代だろう。でも、俺はその人を知らなかった。村の中にいて知らない人の方が珍しい。……いや、違う。知っている。遠目で昔、少しくらいは見たことがある。

 俺はやっとそれに気づいた。それは――アキの父親だ。


「カケル、奥にいなさい。出てこなくていい」


 じいちゃんの声が、聞いたこともないくらいに冷ややかだった。


「え、あ……」


 俺は挨拶も忘れて呆然としてしまった。それくらい、アキの父親の顔は怖かった。母親は綺麗で上品だけれど、やっぱり怒っているのか無言で唇を噛み締めて震えていた。


 じいちゃんに言われた通り、俺は下がろうとした。でも、その途端にアキの父親が鋭く言った。


「その子がうちの娘につきまとっている息子だろう!」


 ビリ、と窓ガラスが揺れるような声だった。思わず身をすくめた俺の後ろに親父が立っていた。親父は俺のことも見ていなくて、アキの父親を鋭く睨んでいた。親父のそんな顔も初めて見た。そのことがショックでもある。


 つきまとっているって、アキと会っていることを言うのか。

 でも、あれはお互いの合意の上で、そんなふうに言われるようなことじゃない。


 それを上手く言えるわけでもなく、俺は頭が真っ白になって立ち尽くした。そうしていると、どちらかといえば温厚なうちの親父が噛みつくように言い返した。


「変な言いがかりをつけるな! 人の家の前でギャアギャアと騒ぎ立ててないで納得のいく説明くらいしてみせろ!」


 親父のそんな喧嘩腰の声は初めて聞いた。アキの父親は口元をピクピクと引き攣らせながら声を落として言う。


「うちの娘が男に呼び出されているらしいと学校から連絡が来た。町まで連れ回されているのを見たという人がわざわざ学校に通報してくれたそうだ。あの子は……アキは、私たちに隠し事をするような娘じゃない。何も言わなかったのは、お前が怖くて言えなかったんだろう。二度とうちの娘に近づくな!」


 怒鳴り散らして、アキの両親はうちの玄関先から出ていった。こんな家に踏み込むのさえ汚らわしいとでもいうように。


 学校に連絡が?

 誰かが俺たちを見ていて、それをわざわざ学校に連絡した? 見かけただけで俺の身元がわかったのなら、それはもしかすると、疋田村の住人かもしれない。一方的に俺が悪いように聞こえるから。


 アキはそれに対してなんて答えたんだ?

 七年前みたいにまた、家族を悲しませたくないって、俺の弁護なんてしてくれなかったのかな。


 なんだ、この現状――

 世界が一気に崩れていくような、足元が覚束ない感覚がした。


 でも、ふわふわとしている場合なんかじゃない。さっきまで俺を庇っていてくれたように見えた親父が、急に俺のTシャツの肩口をつかんだ。それは強い力だった。


「カケル、人違いだろうな?」


 Tシャツの首元が喉を圧迫する。息苦しさを感じるばかりで俺はとっさに何も言えなかった。


「なんとか言いなさい!」


 親父が声を荒らげて俺を揺する。見かねた母ちゃんが近づいてきたけれど、親父は口答えを許さない厳しさだった。

 そんな中、じいちゃんが静かにため息をついた。


「……おかしいとは思ったんだよ」

「父さん?」


 ふと、親父の手がゆるむ。でもそれは、俺にとってなんの救いでもない。


「カケル、この文書だがな――」


 トノが作ってくれた偽文書がじいちゃんの着物の袖口から出てきた。折りたたまれたそれを開き、そうしてこちらに向けた。


「よくできているな。どうやって作ったのかは知らんが、こんなものが存在するわけがない。その理由をわしは知っている。それをお前は知らない。そこが大きな失敗だな」


 じいちゃんは俺の嘘に最初から気づいていた。ただ、どうして俺がそんなこをとするのかがわからなかったから様子を見ようとした。それだけのことなのか――


 じいちゃんは静かだ。怒っているのかすらわからない。でも、その静けさが怖いと思った。


「疋田の道添家の娘か……。お前のことだから、あやつが言うようにその子に無理強いしたりなんてことはなかっただろう。そこは信用している。ただ、年若いうちは周囲が反対することをあえてしてみたくなるものかもしれない。許されないと思うからこそ気持ちが昂ることもな。けれど、今のお前は周りが見えていない。少し頭を冷やすといい」


 淡々とそう言われた。

 反対されるから、駄目だって言われるから、わざとそういう相手を選んでいるわけじゃない。どうしてそんなふうに言われなくちゃいけないんだ?


 目の前が赤く染まるくらいに頭に血が上った。周りが見えていない? そんなの、この村だってそうじゃないか。大人たちだって周りなんか見えていない。俺たちの悩みなんて何もわかっちゃくれていない。

 俺たちはただ普通に仲良くしていたかっただけなのに。


「俺は、周りを困らせてやりたくてやってるんじゃねぇよ! いつまでもこんなわけのわからねぇ状況を平気で引きずってるこの村の方がよっぽどおかしいだろ!」


 カッとなって吐き捨てた。その途端、親父の拳が左頬に飛んできた。

 今まで、殴られたことがなかったわけじゃない。それでも、ここまで力を込めた一撃はなかった。バランスを崩して吹き飛んだ拍子に居間の戸で背中をぶつけた。


 その拍子にポケットからスマホが転がり落ちる。頬も背中も痛いけれど、その痛みをしっかりと味わう間もなく親父が俺のTシャツの首根っこを再びつかみ、有無を言わさず引きずった。……もうこのTシャツ伸びて着れないな、なんてどうでもいいことをぼんやりと思った。


「あなた、それくらいにしてください!」


 母ちゃんが止めに入った声がした。でも、首はそっちに向けられない。


「お前は黙っていなさい」


 いつもは穏やかな親父だから、ぴしゃりとそう言われると母ちゃんもとっさに食いつけないんだろう。姉貴やアツムがどうしているのかもよくわからなかった。


 親父は俺をそのまま外まで引っ張った。雨が降っていて、それでも親父は濡れることなんか構わずに俺を引きずる。俺は靴も履かないまま、そうして薄暗い蔵の中に放り込まれた。


「しばらくそこで反省しなさい」


 反省?

 偽文書を使ってじいちゃんに嘘をついたのは悪いかもしれない。でも、それ以外のことで謝りたくなんかない。必要を感じない。


 なあ、納得のいく説明なんか何もないよな?

 頭ごなしに駄目だ駄目だって騒がれているだけ。


 蔵の戸を閉められて、真っ暗になった。天窓からかすかな光があるんだかないんだかわからない程度の暗闇だ。親父は行ったのかと思ったら、わざわざ鍵をかけに戻ってきた。その周到さも腹が立つ。


 反省ってなんだよ? 知るか。


 俺は蔵の床に寝そべって、雨の音をただ聞いていた。蒸し暑い湿っぽい蔵は嫌な臭いが染みついている。

 アキも今の俺みたいに怒られているのかな。それとも、怖い思いをしたねって慰められているのかな。スマホが手元にないと連絡も取れない。


 七年前、裏切られたような形になって、それでもアキのことを嫌いになれなかった。

 そうして、アキは俺を裏切ったって、そのことをすごく後悔してくれていた。だから、今回はそう……アキのことを信じていたい。勇気を持って、気持ちを保ってくれるって。

 そうじゃなかったら、多分俺は立ち直れないから――


 昔から、悪戯をしては蔵に放り込まれたけれど、今回は何年振りだろう。今さらお仕置きをされる年だとは思わなかった。

 なんか、色々なことが虚しくて、悲しくて、やるせない。


 床に転がったまま、俺はまぶたを閉じることもしないでいた。何もすることはないのに、頭だけが冴えたような、嫌な状況だった。

 どれくらい時間が過ぎたのかもわからなかった。でも、明日は学校がある。朝には出すつもりだろう。でも、学校なんて行きたい気分じゃない。何もしたくない。何も考えたくない。


 そんな時、蔵の戸が開いた。親父が開けたにしては早すぎる。おかしいとは思ったけれど、俺はそっちに顔を向けたくなかった。だから寝ているみたいに動かなかった。そうしたら、そんな俺の背中に潜めた声がかかった。


「カケル……ご飯まだだったから、ここに少し置いておくね。簡単に食べられるようにおにぎりなんだけど……」


 母ちゃんだった。晩飯前にあの騒ぎで、晩飯はすっかり食いっぱぐれた。親父は飯抜きの刑にしたつもりなんだろう。それを母ちゃんが後で色々と言われるのを覚悟で差し入れてくれた。でも――


 バタン、と閉まった蔵の戸。

 真っ暗な中、俺はそのおにぎりを手に取ることもしなかった。

 食べたくない。要らない。食べたくない。


 色んなことが嫌で、全部上手くいかない現実が嫌で、馬鹿な自分も嫌で――

 何も食べないでいるからって、何かが変わるわけじゃない。可哀想だと皆が俺の望み通りに動いてくれるわけじゃない。そんなのは、拗ねた自分の自己満足だ。


 そうは思うけれど、他にできることがない。食うことをボイコットして、そんな浅はかなことで傷ついた心を示そうとする俺はやっぱり子供なんだろう。


 惨めな気持ちを抱えて俺は、雨の音を聞きながら、精一杯歯を食いしばっていた。七年前との違いがあるとすれば、意地でも泣くかと思う程度にはプライドが育ったこと。


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