偽りの栄光
時はわずかに遡り、剣一がニオブに乗って階層を降りている頃。地上に残されたニキアスは、激しい焦りに襲われていた。
「で、殿下。大丈夫ですか?」
「ええいうるさい! 私に触るな!」
ようやく動けるようになった騎士の手を振り払い、ニキアスは自力で地面から立ち上がる。濡れたズボンが張り付く感覚が最高に不快だったが、今はそれどころではない。
(何だ? 何なのだあの化け物は!? あれが本当に人間なのか!?)
ニキアスの脳裏を埋め尽くすのは、圧倒的な威圧感を放つ剣一の姿だ。自分を無視して横を通り過ぎていった屈辱に胸を焦がし、おかげで助かったと安堵してしまった自分に激しく憤る。
しかしその感情さえも今は邪魔だとばかりに蓋をして、ニキアスはダンジョンの方を振り返る。その目に映るのは結界が消え、ぽっかりと口を開けた大穴……ではなく、その奥にいるらしい妹の幻想だ。
(あの奥に妹がいる……? あの化け物がそう言うなら、本当にいるのか? あいつらであれば、ダンジョンを制覇して妹を助けてしまうのではないか? そうなったら私は……っ!?)
あの時、ニキアスはエルと顔を合わせている。つまりもしエルが無事な状態で戻ってきたら、自分がエルを襲ったことがバレてしまう。
勿論、そうなったらそうなったで、全ては剣一達のでっち上げだと主張することもできる……できるはずだったのだ、ついさっきまでなら。
(っ……だ、駄目だ。あんな化け物に文句など言えるはずがない。ならばどうする? あの化け物に手を出さずに、私が助かる方法は……?)
生まれてから一番というくらい、ニキアスは頭を働かせる。取り除くべき懸念は二つ。だがそのうち一つは、人が手を出せるものではない。となれば……
「…………お前達は先に帰って、陛下に事の顛末を報告しておけ」
「わ、わかりました。それでその、殿下は……?」
「私のことはいい! それよりさっさと行け!」
「ハッ!」
騎士達を怒鳴りつけて人払いをすると、ニキアスは近くの倉庫に入り、念のためにとそこにしまっておいたフラフープを手にする。新たに付与するのは手間も時間もかかるが、一度開いて閉じた「窓」をもう一度開け直すだけならさほど手間はかからない。
(あいつらは、妹の無事を確信しているようだった。つまりこれの「中」は、あの愚妹ですら生き延びられる程度には安全ということだ。
それに中身を出し入れできるのだから、『窓』を開けっぱなしにしておけば、こちらに戻ってくることもできるはず……)
「……よし、いくぞ」
もはや道はこれしかない。追い詰められたニキアスは、覚悟を決めて未知に飛び込む。そんなニキアスを出迎えたのは、ニキアスの理解が及ばない謎の空間であった。
「むぐっ!? ぐむむむむ……っ!?」
まず感じたのは、独特の浮遊感。夜空のように深い青に満たされたそこは、ニキアスの感覚では水中のようだった。なので咄嗟に息を止めてもがいたが、手足に水ほどの抵抗は感じられず、体はその場から動かない。
「ぐぐぐぐぐ……ブハッ! ……あ、あれ? 息ができる?」
遂に我慢の限界を超え、ニキアスは止めていた息を吐いた。すると普通に呼吸できることに気づき、ならば焦ることはないと、宙空に浮かぶあれやこれやに手をかけることで、ニキアスは謎の空間を泳いでいく。
そうしてしばらくすると、不意にニキアスの体がドスンと床に落ちた。
「いたっ!? ぐぅぅ……外に出たのか? まったく、何なのだこれは……」
振り返れば、そこには直径一メートルほどの謎のモヤモヤが浮かんでいる。おそらく自分はそこからでてきたのだろうが、どう考えても見た目と内部の広さが釣り合わない。
とはいえ、中の様子からすればその程度はどうでもいいことだ。気持ちを切り替えニキアスが周囲を見回すと、そこは大量の棚の立ち並ぶ、倉庫のような部屋だった。棚の上を見回し、そこにあった魔導具にニキアスは驚愕の声をあげる。
「これは……まさか空間拡張の宝珠か!? それにこっちは隔絶の盾!?」
それらは全て、遠い昔に失われたとされていたアトランディアの秘宝だった。ギラギラと目を輝かせながら、ニキアスはそれらを物色する。
「凄い、凄いぞ! これだけの発見があれば、あの程度の失態などどうとでも挽回できる! これを持ち帰れば……うん?」
そんなニキアスの視線の先に、不意に如何にも寝心地の悪そうな石の台座に横たわる妹の姿が映った。音を立てぬようにそっと近づくと、頬に涙の後を残す愚妹が静かに寝息を立てている。
「無事だったのか。ならば…………いや、違うか?」
エルの方に手を伸ばしたニキアスが、ふと思い直してその動きを止める。
(ここで妹を亡き者にするよりも、妹を助けた功績もまた私のものにすればいいのではないか? あの化け物がどんな手段でここに向かっているのかは知らんが、直接ここに跳んだ私より速いということはないはず。
ならば妹を連れ帰り、上手く説得してあの化け物に襲われたと告白させれば……)
いつも自分の前で縮こまっていた妹が、自分の命令を断れるとは思えない。ニキアスは薄い笑みを浮かべると、エルを放置して棚の物色に戻る。するとそこに、緑の鞘に薔薇の蔓が巻き付いたような意匠を施された短剣を見つけた。
「む、これは『竜殺しの短剣』か? しかし何故ここに……?」
竜殺しの短剣とは、その名の通りドラゴンを殺すことのできる短剣……だと言われている。断定でないのは、歴史上それが一度も使われたことがないため、本当に殺せるかわからないからだ。
しかも「竜殺しの短剣」は、今も城の宝物庫に保管されている。何故全く同じものがここにあるのかニキアスにはわからなかったが、腰に下げているただの長剣に比べれば、たとえ短剣だろうと名前付きの魔法武器は頼りになる。ニキアスはそれを長剣と反対側の右の腰に佩くと、今度は部屋の奥へと歩いていった。
「……なるほど。つまり貴方もそのドラゴンも略奪者ではなく、貴方は本当にあの子の友達なのですね?」
「はい! いやー、わかってもらえてよかったです」
「っ!?」
部屋の突き当たりにある、大きな扉。その隙間から聞こえた声に、ニキアスは口に手を当て息を殺す。それからゆっくり慎重に顔を出すと、その先には件の化け物が、巨大な魔物と談笑している光景があった。
(化け物が化け物と話をしている!? やはりあいつはただの人間ではなく、魔物の先兵だったのか! しかしアトランディアの地下に、あんな魔物が……まさかあいつらは結託して、最初からアトランディアを奪い取るつもりだったのか!?)
ニキアスの思考が、急速に赤く染まっていく。少しでも冷静になって考えれば幾つもの矛盾が浮かぶはずなのに、最初に思いついた自分に都合のいい結論以外は、泡沫にすらならず消えてしまう。
(何ということだ。早く城に帰って陛下に報告し、アトランディアの全軍をあげてあの化け物共を討伐せね……ば…………)
引き返そうとしたところで、ニキアスの視線がふと自分の腰に止まる。更にそこからゆっくりと、化け物と親しげに会話をする巨大な蛇もどきの魔物へとその視線が動く。
(あの見た目……この私ですら知らぬ姿。もしやあれこそがドラゴンなのではないか? 城にある短剣はあのドラゴンが自分を殺されぬようにすり替えた偽物で、これが本物?
なら、ならばだ。地の底に巣くい国を滅ぼさんとしていたドラゴンを今この場で私が殺せば、私が……私こそが、今度こそ英雄となれるのではないか?)
妄想を吐いていただけで英雄扱いされた妹から、真の英雄となった自分が立場を取り戻す。そんな発想が浮かぶと、ニキアスの頭の中で火花が弾け、言葉にしようのない快楽が広がっていく。
(フ、フフフ……そうだ、この場面こそ、神が私のために用意した舞台だったのだ! 妹の妄言も父の愚行も、全ては私のために!)
ゆっくりと、扉の隙間からニキアスが出てくる。決して音を立てぬよう、静かに慎重に巨大な蛇もどきの魔物へと近づいていく。
その頭に、もはや冷静な判断などない。もしドラゴンが殺しきれなかったらどうするのか? そもそも剣一への対処は? 目撃者がいないのにどうやって偉業を証明するのか? それどころかあのもやに入ったら、本当に地上に帰れるのか?
どれ一つとっても致命的なありとあらゆる問題点が、しかしニキアスの頭には入らない。そこに限界まで詰まっているのは、史上最高の王として周囲から無上の賞賛を受ける自分の姿。
「あな、たは…………!?」
「ハ、ハハハ! やった、やったぞ! これで私は、竜殺しの英雄だ!」
ドラゴン基準からすればあまりにも弱く、警戒対象とならない存在。それ故に届いたニキアスの刃は、確かにドラゴンに……そしてアトランディア王国の未来に致命傷を与えた。





