王太子ニキアス
アトランディア王国王太子であるニキアス・プロタ・プリンギパス・アトランディアは、妹が嫌いだった。といっても、最初から嫌いだったわけではない。六歳離れた妹が生まれた時は本当に可愛いと思ったし、その後もヨチヨチと自分の後をついてくる妹を、ニキアスは「こいつは俺が守ってやらないと駄目だな」と好意的に目をかけていたくらいだ。
では、何故嫌いになったのか? 事の始まりは妹が五歳になって、スキルが芽生えた時のことだ。
神の声を聞いた……突然そんなことを言い出したエルに、周囲の大人達は苦笑いで対応した。仕事で忙しい両親や大人達の関心を引くために、子供がついた可愛い嘘……それがエルの「神の声」の真相だと考えていたからだ。
無論ニキアスもまた、同じように考えていた。なので自分が王となるために必要な勉強時間をやや削ってでも、積極的に妹の相手をしてやったくらいだ。
だが、妹はいつまで経っても「神の声を聞いた」という主張を覆さなかった。たった一言「みんなの気を引きたくて嘘をついた。ごめんなさい」と謝れば許してやるつもりだったニキアスは、次第にその事にいらつきを覚えるようになる。
いつまでも子供のまま、いつまでも嘘をつき続ける妹……それが段々鬱陶しくなり、ニキアスとエルの間に溝が生まれ始める。そしてそれが決定的になったのは、エルが一〇歳を過ぎ、そのスキルを発動させた後のことだ。
成長し分別がついてきたからかしばらく大人しくなっていた妹が、再び「自分は神の声を聞いた。このままだと世界が滅ぶ」という戯言を主張するようになった。しかもそれを理由に、この国を出て仲間を探すとまで言い出したのだ。
ニキアスの予想では、この時エルはこっぴどく怒られるはずだった。父である国王が「嘘をつくのもいい加減にしろ! お前も兄を見習って、もっと真面目に勉強したらどうだ!」と叱責したならば、ニキアスもそこまで妹を嫌いになることはなかったかも知れない。
だが、現実は違った。父は何故か妹の主張を聞き入れ、日本へと送り出した。自分が王位継承に向けての努力を重ねる中、嘘をつき続けた妹は更に嘘を重ね、国を出て税金で遊び歩く自由を手に入れたのだ。
許せない。許せるはずがない。「鬱陶しい」が「嫌い」に変わり、ニキアスが時々帰国するエルへの態度はどんどん厳しいものになっていく。
そんななか、妹がまた帰国した。その理由は「世界を滅ぼす災厄を討伐した」という報告をするためだという。
ニキアスからすると、いよいよ嘘がつき通せなくなった……あるいは現実から逃げるのに限界を感じた妹が、何もかも終わったことにして国に帰るつもりなのだと思えた。散々遊び歩いたあとで随分と虫のいい話だと思ったが、災厄のなれの果てだといって大きな亀の写真を見せられた時は、一周回って「ここまで馬鹿だったのなら仕方ない」と受け入れようかとすら思った。
しかし、またも風向きが変わる。妹のあり得ない主張を、国王がまた信じたのだ。父親としての甘い判断を国王という立場で下すイリオスに対し、ニキアスが抱いていた敬意が急速に下降していく。
このままでは駄目だ。愚かな父はニキアスが継ぐべき国の価値を途轍もない勢いで貶めていくばかりか、それを愚かな妹に継がせようとしている。
今までずっと努力してきた自分が蔑ろにされ、嘘を吐いて遊び歩いていた妹が王位を継ぐ? あり得ない。あってはならない。我がアトランディア王国が、嘘吐きの愚妹に奪われるなど絶対に許せない。
「嫌い」が「憎い」へと変わり、ニキアスは決断した。自分のため、自分のため、血縁殺しの汚名を被ってでもなお、動かねばならぬと。
「フッ、フフフフフ…………にしても、こうも上手くいくとはな…………」
自分の目の前で妹が消えたという事実に、ニキアスは昏い笑い声を漏らす。おそらくこうなるだろうと思ってはいたが、実験などできるはずもないので確証がなかったからだ。
だが成功した。玩具の輪っかを被せるという、失敗したら悪戯で済ませられるようなことで妹の存在を消し去ることに成功したのだ。
何故そんなことができたのか? その秘密こそ、代々の王が伝えてきたアトランディアの秘法『窓を開く術式』である。ではなぜ未だ王ではないニキアスがそれを扱えるかと言えば……それはほんのわずかな幸運と、偶然という名の運命によるものだった。
当たり前の話だが、アトランディアの王族はただの人間である。怪我、病気、事故、暗殺。様々な要因で大事なことを伝える前に王が死んでしまう可能性はいつだってあるし、実際幼い王子を残して若い王が死んでしまい、知識の継承が途絶えたことも一度や二度ではない。
ならばこそ、王家には「覚え書き」がある。普段は決して表に出ず、その存在は秘匿どころか忘れ去られているが、全てをなくした王が必死に探すことで、それを見つけることができるようになっているのだ。
ニキアスは、それを見つけた。普通ならば気にも止めぬ、何もなかった時代の埃を被った歴史書の狭間……それこそ本当に必死で、藁にも縋る思いでアトランディアの歴史を全て調べ尽くすような気持ちでなければ目に入らないであろう場所にあったそれを、本当にただの偶然で見つけてしまったのだ。
もっとも、本来ならばそこに大した意味はなかった。何故なら普通に王位を継承すれば、そこに書かれていた内容は父から子へと伝えられていたからだ。たかだか数年早くそれを知ったところで、だからどうということもない。
故に、それは好奇心。いずれ自分が受け継ぐアトランディアの秘法を、今のうちからじっくり調べてもっと色々知っておきたい、そうすれば自分が王位を継いだ時、備蓄を保存するためだけに埃を被っている『秘宝』をもっと活用できるのではという前向きな探究心を以て、ニキアスはそれを調べていく。
窓の術式は何らかの枠にしか仕掛けることができず、空中に出現させるようなことはできない。
出入り口の大きさは大きくすればするほど術式の付与に必要な魔力が跳ね上がるため、収納できるものの大きさには事実上の限界がある。
王族以外のものが窓からものを入れようとしても弾かれる。そして王族であろうとも、生き物を入れることはできない。
それは既存の知識。書かれている通りのことを確認しただけ。これまでの王であったなら、きっとそこで終わっただろうが……ニキアスの生きる現代には、地球の知識がある。
たとえば微生物。目には見えない小さな命は、収納袋に入るのか否か? もしも窓を通過することでそれらを完全に排除できるなら、そこには多くの可能性がある。
たとえば窓の更に先、内部の時が止まるという現象。時が止まるとはどういうことなのか? そもそも本当に時が止まっているのか? それを窓の外にまで応用できれば、それこそ世界を支配できるほどの力になる。
試す、調べる、考える。幾つもの手順を経て独自に情報を集めるなか……ふとニキアスはひとつの疑問に辿り着いた。
窓を超えて荷物を出し入れする時、ニキアスは普通に自分の手を入れていた。そしてニキアスは生きている。つまり「生き物は入らない」という条件に当てはまらない。
今まで何も気にしていなかったが、その日ニキアスは覚悟を以て自分の手を窓の奥に差し入れた。目に見えぬ、時が止まっているという空間……そこでニキアスの手は普通に動き、窓から抜けば何事もなかったかのようにそこにある。
それは一つの可能性。気づいてしまった悪魔の知識。即ち――
「『収納袋』に生き物は入らない……ただし王族は除く」
謳うように呟くと、ニキアスは役目を終えたフラフープを手に、森の奥に隠された第一階層へと直通する転移罠に消えていく。エルが戻らないと心配した剣一が探しに来たとき、そこにはもはや、何の痕跡も残ってはいなかった。





