予想外の来訪
「違いますわ剣一さん! ワシのポーズは左腕を右腕に絡めるように……こうですわ、こう!」
「いや、何一つわかんねーよ!」
一一月一五日。今日も暇を持て余していた剣一は、レヴィの勧めにより心身をリラックスさせるべく、ヨガをやっていた。だが鮭がひれをパタパタやったところで、剣一にはどんなポーズを取るべきかが全くわからない。
「うーん、やはり初心者にワシのポーズは難しかったでしょうか? なら最初はガス抜きのポーズからハッピーベイビーの流れで……それとも身体能力強化も兼ねて、スフィンクスからトカゲ、クジャクからクジャクの羽までを……」
「クジャクの羽? こういうの?」
「剣一さん、ヨガは真面目なものなのですから、ふざけてはいけませんわよ?」
「アッハイ、すみません……」
両手を大きく広げてパタパタやったところをレヴィに怒られ、剣一がしょんぼりする。するとその時、不意に世界を満たす粒子にわずかな乱れが生じたような気がした。ずっとそれを観察し続けていた剣一は即座に部屋を飛び出すと、すぐにディア達もやってくる。
「ディア、今の……?」
「ほほぅ、お主も気づいたのか。確かにそろそろ入ってきそうじゃな」
「なら、俺ちゃん達も動くのか?」
「無論じゃ。しかし長丁場になるかも知れぬ、全力ではなく、ある程度で抑えるのじゃ」
「ウオーッホッホッホッホ! そういう調整はアトランディアで散々やってきましたから、お手の物ですわ!」
「わかってても食いつかずにはいられない、最高の餌っぷりを見せてやるぜ、ウェーイ!」
ディアの言葉にレヴィとニオブが頷くと、三体のドラゴンの体からにわかに魔力が溢れ出す。すると周囲の魔力濃度が急激に高まっていき、鳥や虫が一斉に逃げ去り……あるいは逃げられぬものはパタリとその場にひっくり返って動かなくなる。
「うっ……」
「ケンイチよ、大丈夫なのじゃ?」
「ワタクシのイクラ瓶を提げているのですから、かなり緩和されていると思いますが、それでも今この場所は、人が耐えられる状態を大きく越えた……いっそ汚染と言っていいくらいの魔力濃度になっておりますから、仕方ありませんわ」
「あんまり無理すんなよイッチー。俺ちゃんが結界張るか?」
「いや、大丈夫だ。ちゃんと集中できてるから」
餌の違和感は、できるだけ少ない方がいい。その説明を聞いていた剣一は、ニオブにそう答えると改めて空を見据える。
おおよその予兆を感じてからウロボレアスが実際に出現するまで、数秒か数時間か、あるいは数日か。そこまでを予期するなら無理をするのはよくないのだが、今この瞬間が「その時」であるかも知れないのだから、ここでベストを尽くさないという選択肢はない。
それに剣一の体には、既にレヴィの補助魔法がかかっている。首から提げた小瓶のイクラから発せられる魔法は剣一の体を万全に保ち、今から三日間は食事も睡眠も必要としない。
つまり、待ち構える準備は万全なのだ。なのに最初の最初から「辛いのでもうちょっと守って欲しい」などと、剣一が弱音を吐くはずがなかった。
「すぅぅぅぅぅぅぅぅ…………ふぅぅぅぅぅぅぅぅ…………」
剣を持つ手をだらりと垂れ下がらせ、深く大きく、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、剣一が意識を研ぎ澄ます。極限の集中は体感時間を大きく引き延ばし、たった一分が一時間に感じられるほど。
それでも剣一は緩まない。五分経ち、一〇分経ち、祐二と訓練していた頃の壁であった一時間を超え……そして遂に、その時が訪れる。
「……ん?」
一瞬。まるで場面が切り替わったかのように、空に浮かぶ太陽が突如として黒く染まる。まるで皆既日食のようだが、自然現象のそれと違って、特に暗くなったりはしていない。
故に、それは黒ではなく虚。太陽と全く同じ大きさの穴が穿たれ、そこから何かが入ってくる。ヌラリと輝く黒い鱗を持つ、何処かで見たことのある竜の姿に、剣一は……
「全剣――」
「っ!? ケンイチ、待つ――」
「抜刀!」
先制の一撃による決着。敵の姿を見た瞬間に攻撃するという意識を徹底して磨き上げてきたため、ディアの制止の言葉は間に合わなかった。黒い竜の頭が裂け、体が裂け、尻尾が避け……そうして尻尾の先から不自然に伸びている太いコードのようなものが途中まで裂けたところで、剣一の斬撃が止まる。
剣一に「世界の外側」は認識できない。加えてドラゴンの姿を見てしまっただけに、剣一の持っていた「全部を斬る」の「全部」がドラゴンのところまでで終わってしまっている。
故にその先は無傷。二つに分かれだらりと垂れ下がったドラゴンのような形をしたものをそのままに、まるで穴そのものが伸びてくるように、黒くて長いナニカがニュルリと世界に入ってくる。
「え、な、何だよあれ……!?」
それは一言で表すなら、巨大なミミズであった。相対した正面に細長い亀裂が走ると、無数の牙が生えそろう真っ赤な口が裂けるように露わになる。
それこそ、永炎竜ウロボレアスの本体。しかしその状況に、ディアは雷鳴のような速度で思考を走らせる。
(囮じゃと!? あり得ぬ! ウロボレアスにそんなことのできる知能があるはずがない!)
エネルギーを喰らうという本能だけで動いているウロボレアスに、自らの囮……チョウチンアンコウの疑似餌のようなものを作る習性などない。だというのに何故? 皮肉にもディアだけが、その答えに辿り着くヒントを持っていた。
(別世界のワシ……握神竜デアボリックは、ウロボレアスの炎を使っておったのじゃ。ならばワシがウロボレアスの力をかすめ取った際に、ウロボレアスもまたワシの力を一部奪ったのではないか?
そして力を……存在を奪ったことで、ほんの一時、ほんのわずかだけ、ワシの知性がウロボレアスに宿ったならば……!?)
ドラゴン三体が集まる、美味しい餌場。だがわずかでも知性があるなら、それだけの力が集まっているなら先制攻撃してくるかも? と思いつくのは難しくない。
そしてウロボレアスの有り余るエネルギーがあれば、擬似的な体を造ることなど造作もない。囮としてデアボリックを模した体を生み出し、先に世界のなかに挿入して様子を見る……それは子供が蟻の巣に指を突っ込む前に棒を突っ込む程度のことだが、その効果はまさに絶大。
「ケンイチ!」
「っ!? 全剣…………あ、あれ?」
ディアの言葉に、剣一が改めてその剣を振るおうとする。だが……
「剣が……振れない!?」
斬るという意志を発現しても、「斬った」という結果が生まれない。垂れ下がらせた手を普通に構えて物理的に剣を振っても、それはもはや本当の意味で空を斬るのみ。
「力が……スキルが…………」
何度も何度も、剣一は剣を振る。だが斬れない。何も斬れない。
足下に生えた草ならば、刃が当たれば斬れるだろう。仮設住宅の壁に叩きつければ、切れ込みが入るだろう。
だがそれだけだ。ただそれだけだ。もはや剣一の振るう剣は、触れた者をまっとうに斬ることしかできない。
「ヤバいぞイッチー! 空が!」
ムキになって剣を振るう剣一が、ニオブの声にハッと顔をあげる。するとさっきまでごく普通に明るかった世界が、まるで夕焼けのように朱く染まっていく。
それに合わせてウロボレアスの体から、小さな黒い火が舞っていく。タンポポの綿毛のようにふわりと揺らめき落ちたそれが触れると、その場所が黒く染まって黒い塵として崩れ落ちる。
「……ああ、これが」
言い切ることなく剣一は悟る。これが、これこそが世界の終わり。スキルを失った剣一の眼前では、終末を彩る朱い空に、終焉をもたらす黒い炎が静かに降り注いでいた。





