「その時」の訪れ
「…………む?」
大分気温も下がり、実りの秋からゆっくりと冬の足音が聞こえ初めて来た、一一月一〇日。その日不意に、世界が揺れた。
といっても、地震だとか台風だとかの、人間が物理的に観測できるような揺れではない。世界の在り方とその外側を知る者だけがわかる揺らぎ……それを感じ取ったディアが、洗濯物を干す手を止めて空を見上げる。
「まさか、もう――」
「おーい、ディア!」
と、そこに空から飛来するものがある。スパンコールのマフラーを首に巻き、サングラスをかけた白い亀……ニオブである。
「ニオブか……って、お主なんじゃそのけったいな格好は?」
「うるせーな、撮影中だったんだよ! それより今の……」
「うむ。どうやら奴が来たようじゃな」
ニオブの問いに、ディアが頷く。それから二人揃って改めて空を見上げると、ディアが遠くを探るようにスッと目を細める。
「この感じじゃと、あと一週間くらいじゃろうか……」
「思ったよりあっさり来たな。俺ちゃんの予想では、まだ数年は来ないと思ってたんだが……」
『ウオーッホッホッホッホ! ワタクシもですわ!』
次いでその場に響いたのは、今は遠くアトランディアにいるレヴィの声だ。遠方に滞在するなら連絡手段の用意は必須なので、剣一宅には池の縁や部屋の壁などにぽつぽつとイクラが張り付いている。見た目的にはちょっと生臭い感じだが、当然ドラゴンの産物なので、一〇〇〇年放置しても腐ったりはしない優れものである。
『五年は来ないと踏んで基礎研究に力を入れていたのですが、まさかたったの三ヶ月でやってくるとは……どうやらお相手は来訪マナーというものを知らないようですわね』
「カッカッカ、大食らいのミミズにそんなことを要求しても仕方あるまい。それよりもすぐに対応せねばならぬ。ワシはセーシュウに連絡するから、ニオブは剣一を迎えに行くのじゃ」
「了解! んじゃ、ウェイっと行ってくるぜ!」
『ワタクシはどうしますか?』
「ふむ。転移で呼び戻してもよいのじゃが、さしあたってしてもらうこともないからのぅ。ひとまずはそのまま作業を続けてくれるか? 三日前にはこっちに呼ぶのじゃ」
『わかりましたわ。では、そのように』
話し合いは終わり、ドラゴン達が動き出す。そしてそうなれば、当然人間達もまた動き出す。
「そうか……では関係各所には私から連絡しておこう。君達は君達のやるべき事に集中したまえ」
電話口でそう告げると、会話を終えた清秋はその手を下ろすことなく別の誰かに電話をかけ始める。黒巣から人脈の幾らかを引き継いだことで、連絡すべき相手は多い。
『……なるほど、了解した。ではこちらも受け入れ体勢を整えておこう』
そのうち一人、アメリカ大統領であるマイケル・モーガンは、プライベートのスマホから伝えられた最重要案件に対し、即座に対応を決める。
『私だ。キャサリン君、例の施設はどうなっている?』
『日本からの技術提供を受けましたので、簡易住居に関しては設置が終わっています。中長期的なインフラの整備にはもうしばらくかかると思いますが……』
『残念ながら、今回のお客さんは随分せっかちなようでね。一週間ほどでこちらに到着するようだ』
『っ!? わかりました、現段階で作業を打ち切り、ディーゼル発電機の代わりに充電済みのバッテリーを直接輸送する形に切り替えます。ただその場合、費用が――』
『補正予算を組むから問題ない。頼むよ』
『畏まりました、大統領』
通話を終えて、マイケルは今時珍しい有線の受話器を置く。
『さあ、正念場だ。私の投資がどう転ぶか……あとはじっくり見学させてもらおう』
「先日完成した防御結界用の魔導具を、今すぐ送れ!」
時を同じく、アトランディア。急報を聞いた国王イリオスの指示が居並ぶ大臣達に飛んでいく。
「しかし陛下、あれは試作品で……それに技術流出の懸念が……」
「そんなことはどうでもいい! 世界の命運がかかっているときに出し惜しみなど愚の骨頂ではないか!」
「あの方は我が娘エルピーゾを娶り、将来はこの国の王となられる方です。ここで出し惜しみするのは国の恥と思いなさい!」
「王妃様まで!? わ、わかりました。すぐに手配致します」
王と王妃、両方の指示を受けて技術開発部の主任が謁見の間から飛び出していく。それと入れ違いに入ってきたのは、フワフワと浮かぶ鮭……レヴィだ。
「ウオーッホッホッホッホ! 随分と張り切っているようですわね」
「レヴィアータ様! 国難……いえ、世界難を前にすれば、このくらいは当然でありましょう」
「そうですわね。利益だの何だのというのは、生き残った後のこと。我等アトランディアは他のどんな国よりも、そのことを理解しておりますわ」
「我が愛し子イリオス、そしてミナス。貴方達二人が賢明な指導者であること、ワタクシは誇りに思いますわ。ならば何の懸念もありません。共に世界を救い、我等の……そして皆の未来を守ろうではありませんか」
「はい、レヴィアータ様!」
「ふふふ、孫の顔を見るまでは死ねませんわ」
国守りの竜である鮭を前に、王と王妃が微笑む。一丸となったアトランディアは、こうして影から剣一を支えていくことになる。
他にも中国から大量の物資が送られたり、ロシアから回復薬や回復系の魔導具などが大量に送り届けられることになるのだが……
「そう、行くのね……」
「うん」
明けて翌日。剣一の姿は実家にあった。これを最後にするつもりなどこれっぽっちもなかったが、それでも出発前に、両親の顔を見ておきたかったのだ。
そしてそれは、親である二人も同じだった。昨日連絡をもらい、今日は仕事を休んだ忠蔵が玄関先に立つ息子の姿に笑みを浮かべる。
「立派に役目を果たしてこい。なに、お前ならできるさ。何せ剣一は、私と母さんの自慢の息子だからな」
「父ちゃん……おう! ウロボレだかボロキレだか知らねーけど、俺がバッチリやっつけてくるよ!」
「ふふ、そうか」
「剣一、これ持っていきなさい」
そう言って鞘香が差し出したのは、赤い風呂敷に包まれた大きな箱。
「お弁当よ。たっくさん作ったから、お友達と一緒に食べなさい」
「ありがとう母ちゃん! うわ、重いな」
「当然でしょ? 私の愛がたっぷり詰まってるんだから!」
「愛って……母ちゃん、そんなこと言うキャラだったっけ?」
「たまには言うのよ! まったく……ほら、落とさないようにね」
「おう!」
手にした包みはずっしりと重く、そしてほのかに温かい。まだ食べてもいないというのに、これが手の中にあるだけで勇気が一〇〇倍になる気がする。
「…………無事に帰ってきなさいよ。アンタが失敗したって、きっと他の誰かが何とかしてくれるわ。だから背負いすぎないで……あと、そうね。えっと……」
「ははは、大丈夫だって母ちゃん……ちゃんと帰ってくるよ」
「……ええ、そうね」
「頑張れよ剣一。なーに、父さんの<計算>スキルによると、剣一の勝率は一〇〇%だ。寝ぼけてたって勝てるはずだから、気楽にやってこい」
「おおぅ、そりゃスゲーや! それじゃ父ちゃん、母ちゃん……行ってきます」
最後にニカッと笑うと、剣一は両親に背を向けて歩き出す。その姿が黒塗りの車の中に消えると、抑えていた感情が目から溢れだした鞘香が、忠蔵の体にフラリと寄りかかった。
「…………ああ、剣一…………っ!」
「大丈夫だよ、鞘香さん。あんなにまっすぐ、たくましく育った私達の息子なら、きっと世界だって余裕で救ってくれるさ」
「そう。そうよね。私だってそう信じてる。でも……でも…………っ」
流れる涙をそのままに、鞘香はギュッと胸の前で両手を握る。
「お願い、理香お姉ちゃん。どうかあの子を……剣一を守ってあげて…………」
その願いは遙か天に伸び、しかし答えは返ってこない。ただ黒き竜の胸の内では、淡い光がトクンと一度波打った。





