剣一と報酬
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん…………えぇ?」
八月二四日。無事日本に帰国した剣一は、その日異協にて通帳を確認していた。中国で飲み食いしたものが想像より大分高かったり、日本円とほとんど同じだと思っていたロシアのルーブルが実は一.七倍くらいの価値であったりと、引き落とされている金額の多さに顔をしかめたりもしたのだが……
「…………じゅ、じゅうおくえん?」
それより何より、剣一の口座には中国から五〇〇〇万元……日本円だと一〇億円を超える金額が振り込まれていた。
「……………………」
見たことのない桁数に、剣一は通帳を開いたり閉じたりする。だが五回繰り返しても内容が変わることもないし、一〇回数え直しても桁を間違えているということもない。
なので剣一は若干カクカクした動きで自宅に帰ると、畳のある部屋で正座し、スマホを片手に番号を押す。
「もしもし、剣ちゃん? どうしたの?」
「祐二……何か俺、一〇億円もらっちゃったんだけど…………」
「…………わかった。すぐ行くから待ってて。家だよね?」
「うん」
ぷつりと電話が切れ、待つことしばし。勝手に玄関を開けて入ってきた祐二は居間で正座する剣一を見つけると、その肩を掴んで優しい声で話しかけた。
「自首しよう。大丈夫、たとえ前科がついたって、僕と剣ちゃんは友達だから」
「犯罪じゃねーよ!」
平和な日本の民家に、剣一の叫び声が響き渡った。
「……なるほど。つまりその一〇億円は、中国で剣ちゃんが暴れた報酬だったってことだね」
一通り剣一の説明を聞き終え、祐二がウンウンと頷く。そしてそんな祐二の隣では、愛がグラスに注がれた冷たい麦茶をコクリと飲んでから口を開く。この家に来る前に祐二が素早く連絡を回していたので、この場にはいつものメンバーが勢揃いしていた。
「凄いねー、剣ちゃん大金持ちだ-」
「まあ、うん。そうだな。でも正直、大金過ぎてどうしていいかわからないっていうか……」
「あの、剣一さん。そもそもなんですけど、そのお金って本当に剣一さん宛てに振り込まれたものなんですか? 何かの間違いとかの可能性は?」
と、そこで英雄がそっと手を上げて言う。
「昔何処かで、間違って振り込まれたお金を使っちゃったせいで大変なことになった、みたいなニュースを見たことがある気がするんです。もしそれが間違いだったら、剣一さんが大変な事になるんじゃ……?」
「おぉぅ、確かに一〇億はどうしようもねーな。いやでも……」
「間違いってことはないと思うわよ。ケンイチ君の働きを考えれば、そのくらいは妥当だもの」
悩む剣一に、砂糖の入った麦茶をチューッとストローで吸ったアリシアが言う。ちなみに彼女の上司と同僚であるロイとジミーは家の外だ。ドラゴンの守る家に護衛が必要かどうかは別として、仕事は仕事なのである。
「確かに個人での一〇億円は大金だろうけど、国家レベルで見るならはした金よ。だってウー将軍があのままだったら、下手したら内乱が起きてたんじゃない? そうなったら国内が荒れて経済にも大打撃、損失額はその百倍でも足りないくらいになったと思うわよ。
そう考えたら口止め料を含めての一〇億円は、むしろ破格に安いと言えるわね。ま、あくまでも私の考えだけど」
「あー、そういうのもあるんですか……」
アリシアの説明に、剣一は若干引きながらもひとまず納得する。ただ正直話の規模が大きすぎて、今ひとつピンときてはいない。すると次に口を開いたのは、塩をひとつまみ入れた麦茶をグイッと飲んだエルだ。
「ま、そんな細かいことどうでもいいじゃない。それよりケンイチ、それどうするの? いっそぱーっと使っちゃう?」
「ぱーっとって……一〇億円だぞ? 正直使おうと思っても使える気がしねーんだけど」
エルの提案に、剣一が苦笑する。美味しいものを山ほど食べ歩きしたり、ちょっと欲しかったものを片っ端から買ったとしても、一〇億円に届くとは到底思えない。
だがそんな剣一の発想を、エルは軽く飛び越えていく。
「あら、そう? でもほら、たとえばこの家をレンタルじゃなくて購入するとかってなれば、そのくらいあっという間なんじゃない?」
「家を……買う!? そんなの考えたこともなかったけど、確かに買えるのか?」
「待って剣ちゃん。そりゃ一〇億あれば大抵の物件は買えるだろうけど、正直僕達の歳で家を買っても持て余すだけだと思うよ?」
「そうだねー。結婚すればお相手の好みとかもあるし、その後子供ができれば子供部屋とかも欲しくなるだろうし、流石に今買うのはちょっと早いかもねー」
「そっか。そうだよな……なら他には?」
剣一の視線が動き、止まった先にいたのは聖だ。
「私ですか? 私でしたら、それだけあるなら株式投資などがお勧めですが……」
「株!? 悪いけど、俺ギャンブルは苦手っていうか、あんまり好きじゃないんだよなー」
「えぇ? あの、剣一様? 株はギャンブルではありませんよ? 投資と投機は別物で……」
「いやでも、株って損することもあるじゃん? ならやっぱりギャンブルだって」
「ははは、駄目だよ聖さん。僕達みたいな庶民が気にするのはそういう違いじゃなくて、自分のお金が減るかどうかなんだ。ほら、経営者なら商品の仕入れとか社員の給料とかで毎月大量にお金が出ていくけど、それって普通だから気にしないし、その分稼げばいいって思うでしょ?
でも労働者だと、お金って働いたら必ずもらえるもので、その額が増えたり減ったりすることはあっても、マイナス……自分がお金を払うことになるっていうのはないんだ。
だから実際の理屈じゃなくて、単純に『自分のお金が減る可能性のある物事』は全部ギャンブルに思えちゃうんだよ。実際僕だって一〇〇万円を投資に突っ込んだりしたら、きっと『損するかも?』って不安で毎日落ち着かなくなるだろうしね」
「はぁ……なるほど。そういう方もいらっしゃるんですね」
祐二の解説に、聖が微妙な表情を浮かべながらも頷く。勿論祐二の言うことは子供が聞きかじった程度の内容に個人の感想を添えたものでしかないわけだが、別にどちらも相手を説得しようと思っているわけではないので、その話はこれで流れていく。
「ぐぅぅ、そうなると俺はどうしたらいいんだ……?」
「普通に貯金しておけばいいんじゃない? それともおじさんとかおばさんに預けるとか?」
「それもアリだけど、一応剣ちゃんの稼いだお金なんだし、剣ちゃんがしたいようにすればいいんじゃない? 前に呼んだWEB小説で、『大金が手に入る前に欲しかったものは全部買っても平気だけど、大金が手に入ってから欲しくなったものは大体無駄遣いだ』って話があってさ。だから昨日までの剣ちゃんが欲しかったものは買っちゃってもいいと思うよ」
「昨日までの俺が欲しかったもの、か……」
結局そんな当たり前の結論に辿り着き、剣一がにわかに考え込む。
「そう言えば、新しいタブレットとか欲しかったけど……」
その視線が、部屋の片隅に置かれたタブレットに向かう。しかし今、それを使っているのは剣一だけだ。
お土産のお菓子も、いつの間にか買っていたらしい高級フルーツも、消費されることなく戸棚や冷蔵庫のなかに収まっている。
「……ディア、何処行ったんだよ」
その呟きに、誰も何も答えない。賑やかだった空気が冷え、ただ沈黙だけが場を満たしていく。
「ごめんね、ケンイチ。お父様に頼んで、探してもらってるんだけど……」
「私もお祖父様にお願いしているのですが……」
「うちの上司も動いてくれてるわ。でも今のところ、目撃情報は無くて……」
「いや、いいんだ。ありがとな」
エル、聖、アリシアの三人に、剣一は頑張って作った笑顔で答える。そもそもニオブとレヴィに全力で探してもらっているのに未だ見つからないのだから、それ以上を要求するつもりもない。
「まったく、いきなりいなくなりやがって。俺がどんな気持ちで……くそっ!」
ギュッと、剣一が拳を握る。何でもできそうに思えた一〇億円が、どうしようもなくちっぽけに感じられる。
「おーい、ディア! 今夜は最高級の焼き肉だ! さっさと帰ってこねーと、皆で全部食っちまうからなー!」
心の底から大声を出して、剣一が叫ぶ。そんな悲痛な呼びかけに――
「……おお、それはナイスタイミングなのじゃ。今ワシは腹ぺこじゃからのぅ」
「っ!?」
亀と鮭に腕を支えられ、剣一宅の庭先に降り立つややぽちゃドラゴンが答えた。





