希望の光
『何だ!? 光の中から亀が降りて来たぞ!?』
『背中に乗ってるのは……サーモン、か?』
『神だ! 神が降臨なされたのだ! ……想像より大分生臭い感じではあるが、とにかくあれこそ神だ!』
聖堂内部が騒然とするなか、ゆっくりとニオブが降下してくる。そうして床に着地すると、その背中からレヴィがビチッと飛び上がった。
「ウオーッホッホッホッホ! 氷時竜レヴィアータ・アナスタシア・エフィ・カロリーナ・ヴァシリス・コスタ・オケアノス、お呼びにより参上致しましたわ!」
「レヴィ!」
「我が愛し子エル、再会を喜ぶのもいいですが、まずは患者を診てしまいましょう。さ、皆さん。道をあけてくださいな」
破顔するエルをそのままに、レヴィがふわりと宙に浮き、泳ぐようにドロテヤに近づいていく。
「え、レヴィって水の中だけじゃなく、空中に浮かんで動けたのか!?」
「驚くところそこなの!? まあ私も鮭が空を泳いでる様はちょっとビックリするけど」
「何よ、レヴィなんだからこのくらいできて当然でしょ!」
「俺ちゃんだってディアだって飛べるんだから、そりゃレヴィも飛べるだろ。ウェイ!」
「外野、うるさいですわよ! 少し静かになさってくださいな!」
「「「アッハイ、すみません」」」
レヴィに怒られ、全員が……それこそ騒然となっていた教団関係者まで一斉に押し黙る。そうして静寂のなかレヴィがフヨフヨとドロテヤの周囲を飛び回ると、程なくして診断結果を口にした。
「ふむふむ、なるほど……これなら何とかなりそうですわね」
「本当、です!? 聖女様、助かるですか!?」
その言葉に、クサナがレヴィの鮭ボディに飛びつかんばかりの勢いで腕を伸ばす。だがレヴィはスルリとそれを避けると、立派な尾びれでペチンとクサナの頭を叩いた。
「こら、落ち着きなさい! 立派なレディを目指すなら、いつ如何なる時も取り乱してはいけませんよ?」
「うぅぅ……ごめんなさい、です」
「わかれば宜しいのですわ。では早速魔法を使いますが……その前に。今からここで起こることは、決して誰にも話してはなりません。約束できますか?」
「できる、です! クサナは絶対に言わない、です!!!」
「も、勿論私達も、誰にもいいません! ですからどうか、聖女様を……っ!」
「宜しいですわ。ではニオブさん、結界をお願いできますか?」
「ウェーイ! レヴィはともかく、こんな可愛い子の涙を見せられちゃ、張り切らないわけにはいかないぜ! ウェイウェイウェイウェイ……ミラーダスト・ディストーション!」
高速回転を始めたニオブから、亀の甲羅のような多面体の光の壁が広がっていく。それが室内を覆い尽くすところまで広がると、レヴィが己の魔法を紡ぎ始める。
「流るる水は上より下へ、然れど我が身は下より上へ。鮭は遡上し先は遡行し、及を遡にして根来を禍む」
薄く可視化されるほど濃密な魔力が、渦を巻くように集まっていく。その光景に誰もが圧倒されるなか、レヴィの詠唱はまだ終わらない。
「転じよ、変じよ、未たずに満ちよ。久至に屈せず覆せ! フリザベント・リル・エム・オール・アレイジア!」
瞬間、渦の細い突端がドロテヤの顔に突き刺さる。ギュルギュルと激しく回転する魔力が吸い込まれるのに合わせてドロテヤの顔もまた歪み、最後にひときわ大きくギュルンと捻れ、ドロテヤの体がビクッと震えると……
『……血が、止まった?』
『お、おぉぉ! いつもの聖女様の顔だ! よかった、本当によかった……』
生理的嫌悪感を招くような捻れた顔ではなく、今までと変わらぬ聖女の顔があったことに、教団員達がホッと胸を撫で下ろす。加えてその目から流れ続けていた血が止まっており、閉じられていた瞳がゆっくりと開いていく。
『…………これは…………一体…………?』
『聖女様!』
『クサナ!? 私はどうして……!?』
開かれた聖女の目には、泣きはらしたクサナの顔がはっきりと映っていた。自分が生きているどころか視力さえ戻っていることに戸惑うドロテヤに、レヴィが徐に声を掛ける。
「ふむ、その様子ならきちんと治ったようですわね」
『空を飛ぶサーモン!? しかも喋って……!?』
「淡水魚ではなく海水魚ですわ! いえ、それ以前にワタクシは氷時竜レヴィアータ・アナスタシア・エフィ・カロリーナ・ヴァシリス・コスタ・オケアノスですわよ!」
『ドラゴン……なるほど、貴方様が私を助けてくださったのですね』
「まあ、そうですわね。我が愛し子とその思い人の願いでしたので、特別に力を振るって差し上げたのですわ! 愛し子エルと剣一さん、それにその小さなレディに感謝することですね」
「……………………」
『聖女様、聖女様ぁぁぁぁぁ……っ!』
ドロテヤはゆっくりと周囲を見回し、そこで自分に笑顔を向ける剣一とエルの姿を……そして何より、自分の縋り付いて泣くクサナを見た。その体をそっと抱き寄せると、優しい鼓動と温もりが「命」というものを何よりも実感させてくれる。
生きている。ただそれだけのことがあまりにも幸せ過ぎて、二人はしばし抱き合い、静かに涙を流すのであった。
「ありがとうございます、ツルギケンイチさん。エルピーゾさん。ミラーさん」
それから三日後。帰国を前に、剣一達は再び大聖堂を訪れていた。と言ってもドロテヤと会うのは以前の広間ではなく、もっと小さな……だが塵一つ無いほどに手入れの行き届いた清潔な室内だ。
「レヴィアータ様にも、宜しくお伝えください。本当なら立ち上がって頭を下げたいところなのですが……」
「駄目、です! 聖女様は、まだ起きたら駄目!」
「……ということなので」
ベッドの上で上半身だけを起こすドロテヤが、真剣な顔で自分を見張って……あるいは見守っているクサナの言葉に苦笑する。ドロテヤ的には特に不調を感じてはいないのだが、クサナを筆頭に「せめて一週間は安静に」と懇願されれば、それを無視して執務をすることはできなかった。
「気にしないでください。俺は別に、そんな大したことはしてないですから」
「アタシはレヴィにお願いしただけだけど、ケンイチは違うでしょ」
「そうよね。神様が降臨した、奇跡の道……だっけ?」
「アハハハハー! 俺には何のことだかさっぱりわかんねーなぁ!」
剣一が大聖堂に開けた穴は、「天から神が降臨した際の通り道である」として、修復されずに残す方向で話が進んでいる。それを聞かされた剣一は何ともしょっぱい顔つきになったが、弁償しろとは言われなかったのでそれはそれとすることにしていた。
「ところで聖女様。その目は、やっぱり……」
「ええ、どうやら私には、もう未来を見る力はないようです」
控えめなアリシアの問いに、ドロテヤが小さく頷いて答える。その瞳は両方ともごく普通の榛色になっており、確認用に持っているライセンスでは<天眼:五>の部分がグレーアウトしている。
これは何らかの理由でスキルが使用不能になった場合に起きる現象で、極めて過剰に魔力を消費した場合などの、現代の科学ではわからない「何か」に不具合が生じた際に起きる現象として、世界中でごくわずかに検証されていた。
「ごめんなさい。本当はそこもどうにかできればよかったんだけど……」
「エルピーゾさんが謝ることではありません。むしろ生きて目が見える状態にまでなったのですから、感謝以外の気持ちなどあるはずもないのです」
しょんぼりするエルに、ドロテヤが微笑んで答える。そもそもドロテヤの目は、極めて強大な存在によって「なかったこと」にされていた。それはレヴィの力すら超えていたので普通に復元することはできず、レヴィはドロテヤの体の一部を受精卵レベルまで巻き戻し、そこから新たに「目」を作り直すことで再生ならぬ再誕させたのだ。
だが肉体ではなく魂に結びつくスキルに関しては、それでは取り戻すことができなかった。レヴィが真に神へと至っていたなら話も違ったのだろうが、そうでない以上、そうできなかったというのが結果である。
「そう、です! 聖女様が助かったから、クサナは十分です!」
だがそんなことは些細な問題だと、クサナがドロテヤに告げる。それから剣一達の方に歩み寄ると、アリシアを見て、エルを見て……そして最後にちょっとビクッとしながらも、剣一の顔を見た。
「ケンイチがいなかったら、聖女様は助からなかった……です。だから、その……あ、ありがとう、です」
「おぉぉぉぉ……」
遂に自分の顔を見てお礼を言われたことに、剣一が軽い感動を覚える。そんな剣一をエルとアリシアが肘でツンツン突き、その光景にドロテヤが笑顔を重ねる。
自分の未来予知の力がなくなり、教団はこれから苦難の道を歩くことになるだろう。だが若者達が続いてくれるなら、きっとどんな困難でもはねのけられる。そしてそのために、自分もまた拾った命を全力で使おう……そんなことを決意すると、失ったスキルよりもずっと強い力が自分の中に湧き上がる気がする。
「なーなー、クサナ! もう一回! もう一回俺の顔を見て名前を呼んでくれよ!」
「……もう言わない、です」
「ぐぅぅ……じゃあほら、ジェラート奢るから!」
「ジェラート……」
「こらケンイチ! クサナを甘い物で釣るなんて駄目よ! そのジェラートはアタシに奢りなさい!」
「なら皆で食べに行きましょうか。ケンイチ君、三人分宜しくね」
「え、俺が全員分!? で、できらぁ! 確かルーブルって日本円とほとんど同じなんだろ? ならそのくらい奢ってやるさ!」
「わーい! じゃ、行きましょクサナ!」
「聖女様……?」
「ふふ、いいですよ。気をつけて行ってきなさい」
「はい、です!」
「年下の男の子に奢られるなんて久しぶりね。楽しみ」
滅びに瀕しているはずの世界で、明日を信じて疑わない若者達が部屋を出て行く。スキルなどなくても、ドロテヤはその姿に光り輝く希望の未来を感じていた。





