聖女ドロテヤ・ジーナス
「ふぅ…………何とか終わりましたか」
そうして剣一達が退室した後。一気に疲れた表情になった聖女ドロテヤが緊張を緩めて長い息を吐く。それからクサナの方に視線を向けると、軽く微笑みながら声をかけた。
「それにしても意外ですね。クサナなら案内役を買って出るかと思っていましたが……」
『聖女様』
と、そこでクサナが母国語でドロテヤに話しかけた。なのでドロテヤも当然同じ言葉で答える。
『何ですかクサナ』
『私のお仕事は、あまりよくなかったですか?』
『何故そう思うのですか?』
『だって、私がなかなかあの人に声をかけられなかったから、いっぱい寄り道することになって……聖女様がお疲れなのは、そのせいじゃないですか?』
ローブの裾をキュッと掴んで不安げな顔をするクサナに、ドロテヤは優しく抱き寄せながらゆっくり首を横に振る。
『それは違いますよ。クサナは私の思った通り、完璧に役目を果たしてくれました』
『……本当に?』
『ええ、本当ですよ。むしろそのために幼い貴方をたった一人で日本に送ったことを、私の方が謝らなければなりません。大変でしたね』
『それは……うぅ、確かに大変でした。でもアリシアは優しくしてくれたし、ミンミンも楽しかったし、お姫様もお菓子とかくれたし……あの人も、凄く怖かったけど……でも悪い人じゃなかったし…………』
『ふふふ、そうですか』
モジモジしながらも思い出を語るクサナの髪を優しく撫でながら、ドロテヤは今回の一件を振り返る。
それは選択しなかった未来の話。もし剣一への使者にクサナではなく普通の……それこそ教団の外交や広報を担当するような人物を送った場合、剣一はすぐに手紙を受け取り、そのままロシアにやってくることになっていた。
だがそうなると、ミンミンが剣一に接触する機会を失う。つまり剣一が中国に行かなくなり、「黒い何か」に触れる機会がなくなるということである。
それは未来を狂わせる致命的なすれ違いだ。黒い力に侵された者と剣一の出会いは一年以上先になり、取り返しのつかない犠牲が出ることになる。
そこから先は地獄だ。自分ではない何者かの意図がそうならないように仕向けていた気配を感じるだけに、そこから逸れた未来には何の救いもない。
(歴史の暗躍者は、おそらく私だけではない。そしてその相手は、おそらく私よりも未来を知っている。だからこそその何者かは、私にもあの力を寄生させたのでしょう)
誰も知らず誰も気づかず、だが聖女ドロテヤには、ウー将軍やエイ皇帝と同じく、黒い力が寄生していた。
そしてそれが剣一の力によって斬り捨てられた時、ドロテヤは自分がやるべき事を全てやり終わっていた。後はただ時が過ぎるのを待ち、やってきた剣一達を出迎え……そしてそれすら、今あっさりと終わったところだ。
もっとも、そこに「操られていた」という感じはない。自分がやったことは全て覚えているし、今冷静に考えてもそれらは全てやるべきことだったと理解し、納得できる。
ただ一点躊躇うとすれば、自分と同じく強力な魔眼系スキルを有し、それ故に生きづらい日々を送っているクサナを……実子のいないドロテヤが我が娘のように可愛がっている幼子を単身日本に送り出したことだが、気持ちの問題を抜きにすればそれが最善だったこともわかっている。
(大丈夫。ちゃんと未来は繋がっている……繋がっているはずだけれど……)
『聖女様? どうかしましたか?』
ふと、クサナが声をかけてくる。心ここにあらずで考え事をしていたドロテヤに気づいたからだ。その声で我に返り、ドロテヤは改めてクサナの頭を撫でる。
『大丈夫ですよ。私も一仕事終えて、少し疲れてしまったようです』
『なら、私が聖女様を癒やします! 歌を歌いますか? 肩を揉みますか? それとも……あ、そうだ! 一緒にお昼寝するのがいいと思います!』
『ふふふ、それはとても魅力的な提案ですね。ですが私はまだもう少しやることがあるので……そうですね、クサナはハチミツたっぷりのホットミルクを用意してもらえますか?』
『ホットミルク! あれはとっても美味しいです! すぐに用意してもらいますね!』
パッと表情を輝かせると、クサナが小走りで部屋を出て行く。それを幸せな気持ちで見送ると、ドロテヤは椅子に背をもたれかからせ、赤い左目にグッと力を入れた。
すると視界がゆっくりと切り替わり、世界がブレて滲んでいく。そうして映し出されたのは、ここから分かれた別の世界。一瞬ごとに増えていく残像の一つに焦点を合わせると、今度は青い右目に力を込める。
『さあ、見せて……世界はこれからどうなるの?』
右目に映る世界の時は、どんどんと加速していく。剣一と直接会ったことで増えた情報を元に、赤い目で合わせた焦点に向け、青い目が未来を演算していく。
一日、一週間、一ヶ月……世界はまだ平和だった。勿論そこかしこに争いの種はあるが、それはあくまで人の意志。日常の延長は崩壊と呼ぶにはほど遠く、どんな時代、どんな世界であろうと常に失われ続ける弱き命を無視するならば、そこにあるのは平和な光景そのものだ。
だがそれが、ある時を境に一変する。
(――ここだ)
空に輝く太陽が、黒い虚無へと成り代わる。誰もが空を見上げるなか、世界が虫食いになっていく。
黒く削れて失われる丸。見える世界がマーブル模様になっていく様を、ドロテヤは必死に探っていくが……
(……違う? これは世界が失われているんじゃない。私の力が……っ!?)
唐突にそれに気づき、ドロテヤの背筋に戦慄が走る。見える世界が丸く切り取られているのではないのだ。自分が世界を視る能力が、丸く切り取られていっているのだ。
だが一体、何をどうすればそんなことができるのか? また訪れていない未来から、過去の自分に干渉する? そんなことができる存在がいるとすれば……
『くっ!?』
強烈な痛みを感じて、ドロテヤは思わず目を閉じてしまった。無意識に当てた手にはどろりと熱い感触が伝い、大事なナニカがこぼれ落ちていく。
『聖女様、準備が…………聖女様!?』
と、その時。部屋に戻ってきたクサナの悲鳴のような声と共に、ガシャンという音が辺りに響いた。きっとクサナがカップを落としてしまったのだろうと、痛みを堪えて目を開いたのだが……
(……ああ、そういうことですか)
『聖女様! 聖女様! 血が一杯……誰か、誰か助けて!』
『ああ、クサナ。そんなに慌てないで……床に落としたカップを踏んだら、怪我をしてしまいますよ?』
『私のことなんてどうでもいいです! お願い誰か! 今すぐ来て!』
『どうしたのですか? 大声を出して……っ!? これは!?』
クサナの叫びは周囲に届き、静謐だった空間にざわめきが広がっていく。なかでも騒ぎを聞きつけたジョレスが部屋に入ってくるなり回復魔法を行使し始めたが、そんななかドロテヤは、自分に縋り付くクサナの体温を感じて手を伸ばし、そっとその頭を撫でる。
(私に黒い力が憑依していたのは、それに関する未来視をさせないためだったのですね……そして今、その必要がなくなった。つまり世界は、ちゃんと救われる方に向かったのです)
その両目は未来どころか今の景色すら写さなくなってしまったが、それでもドロテヤの心には安らぎが広がる。たとえ自分が望む未来に辿り着くための歯車でしかなかったとしても、それで愛しい幼子に明日を繋げる助力となったなら、こんなに嬉しいことはない。
『聖女様! 死んじゃ嫌です!』
『くそっ、どうして血が止まらない!? 私のスキルは<回復魔法:四>なのに! このまま出血が続いたら……』
『聖女様! 聖女様ぁ!』
『泣かないでクサナ。これがきっと、私の運命だったのです。それとジョレス、貴方も無理をしないで。私に傷を穿ったのは、神の如き強大な力。人の身でそれに抗うことはできないのです』
『ですが、聖女様……くそっ、くそっ、くそっ! 神よ、偉大なる神よ! 今この一時を過ぎれば、全ての力を失ってもいい! だからどうか、私に聖女様を助ける力を……っ!』
祈りの言葉を口にしながら、ジョレスがスキルの力を振り絞る。だがドロテヤの目から流れ出す血が止まることはない。白い法衣は真っ赤に染まり、鉄さびに似た絶望の香りが辺り一面に立ちこめる。
『人間には無理……でも、それなら…………』
『クサナ? どうしたのですか?』
『待っててください聖女様! 私がすぐ、助けを呼んでくるです!』
人間には無理。だがたった今、とても人間とは思えない相手と別れたばかり。クサナはずっと寄り添っていたいという気持ちを振り切り、強く石の床を蹴って大聖堂の外へと駆け出していった。





