支え合う人
「…………プハッ!」
水中から浮き上がった時のように、エルが大きく息を吐いて口を離す。すると指をくわえられていたクサナは勿論、アリシアやミンミンもエルに声をかけてくる。
「終わった……です?」
「おお、やっと戻ってきたネ! 何回呼んでも全然反応しないから、正直ちょっと気持ち悪かったヨ」
「ミンミン貴方、それ言う必要あった? 大丈夫お姫様?」
「ええ、平気よアリシア。ありがとうクサナ。ごめん、ちょっと急ぐから! ケンイチ!」
きちんとお礼はしたかったけれど、今自分の中にある力は極めて不安定で、少しでも気を抜けばそのまま霧散してしまう。なのでエルは軽くそう言うだけに留めると、急いでケンイチの方に駆け寄った。
「エル! いけるのか?」
「多分!」
「わかった。なら俺はどうすればいい?」
「そうね……」
「剣一さんは、そのまま立っていてくださればよろしいですわ! で、我が愛し子エルは……本来なら正面から抱きついた方がいいのですが、剣を振る邪魔になるでしょうから、ここは背中で妥協しましょう。
ほら、愛し子エル。剣一さんの背中にギュッと抱きつくのです!」
「なっ!? あっ…………い、いい? ケンイチ?」
「お、おぅ。いいぜ?」
若干顔を赤くした剣一が、ウー将軍に向かって立った。その背中に熟れたトマトより顔を赤くしたエルがギュッと抱きつく。
「さあ、我が愛し子エル。ここからは意識を研ぎ澄ましなさい。以前やったときはワタクシが補助しましたが、今度は貴方が剣一さんと深く<共感>するのです。
大丈夫。今の貴方なら、やってみればわかります」
「そうなの? わかった、やってみる」
レヴィの言葉にエルは浮ついた意識を切り替えると、とりあえず剣一の背中におでこをくっつけ、目を閉じてそこに意識を集中した。そのままスキルを発動させると、二つの温もりがゆっくりと一つに溶け合っていき、やがて互いの境界が曖昧になっていく。
そこもまた、蒼く深い世界。自分しかいない孤独感にエルが寂しさを覚えると、不意に正面に大きな光が見えた。
「これ……?」
それは光でありながら、黒かった。あまりにも巨大で、あまりにも強大。無限に重なり合う力が、無理矢理一つの場所に押し込められているような、そんな感覚。
触れるだけで、全てを壊してしまいそうだった。
触れるだけで、全て壊れてしまいそうだった。
とてもとても強いのにとてもとても脆くて、とてもとても大きいのに、とてもとても頼りない。
「ああ、そう。これがアンタなのね……」
クサナが怯えた理由が、少しだけわかった。何も知らない者がこれを見たら、そりゃ怖いだろうと思う。
だが、エルは違った。クサナの混じった右手を、優しくそっとその光に伸ばす。その手はどろりと溶けて黒い光に飲み込まれたが、エルが感じたのは飲み込まれる恐怖ではなく、まるで日だまりのような暖かさだけだった。
「…………見えた」
一瞬。何の予兆もなく訪れたその瞬間、剣一の目には目の前でもがくウー将軍の「本質」が視えた。本来は白だったであろうそれには太く黒いナニカが雁字搦めになるほど巻き付いており、それどころか深く食い込んだところから浸食した黒が混じり、本質のほとんどが黒に近い灰色になってしまっている。
誰が見ても、それを切り離すことなど不可能だと考えるだろう。灰色の絵の具を白と黒に斬り分けるなど、普通に考えてできるはずがない。
だが剣一は違った。エルとクサナ、それにアリシアや一応ミンミンの協力もあって、その光景を見ることができた。
見えたら斬れると断言した。任せろと約束した。背中に感じる温もりが、剣一に果てしない力を与えてくれる。
『グァァァァァァァァ!!!』
と、そこで遂に、ウー将軍のなれの果てがエルの魔法を打ち破った。その赤い瞳がギロリと剣一を睨み付け、黒い炎を纏わせた手を前に突き出す。
『よくもやってくれたな! だがそれもここまでだ。貴様等の全て、この虚无の炎で焼き尽くしてくれる!』
メラリと燃え上がった炎が、剣一とエルの体を包み込む。それは剣一のスキルを猛烈な勢いで燃やしていったが、剣一は揺らがない。
「悪いな、もうそれは効かねーよ」
背中には、エルがいる。支えてくれる人がいるなら、揺らぐ理由などない。
剣を構えて、息を整える。斬るべきはあの黒いナニカ。視界はとっくに元に戻っているが、一度でも見たなら十分。
『死ぃぃぃねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!』
「…………」
目を閉じて剣一が意識を広げると、殴りかかってくるウー将軍の体を、刹那の銀閃が走り抜けた。分子や原子など遙かに及ばぬ、この世の全てを構成する最小単位にまで遡って、剣一の認識が黒だけを捕らえていく。
(まだだ。全部……全部斬ってやる!)
その銀閃は止まらない。国を走り、大陸を走り、空の上を、海の底を、この星に蔓延るあらゆる「黒」を斬り跳ばすべく、森羅万象を駆け抜ける。
それは何処かの人間だった。それは何処かの動物だった。それは単なる石ころだった。それは漂う風だった。世界に紛れた黒い意思。その全てを捕らえ終えた剣一が、閉じていた目を開く。
「――全剣、抜刀!」
シャァァァァァァァン――
世界に、光が奔る。まるで舞い散る桜のように、辺りに銀が舞い踊る。
『あっ……あっ…………あぁぁぁぁ……………………』
バタンと倒れ伏したウー将軍の体が、みるみるしぼんで元に戻っていく。全裸で倒れ込む中年男性の体には、かすり傷一つありはしない。
だが間違いなく斬った。今この瞬間、世界の至る所に撒かれていた黒いナニカは、一片すら残すことなく世界から消え去った。
「……………………やったの?」
「ああ」
背中から聞こえた声に、剣一は優しく答える。背中から温もりが離れると、剣一は剣を収めて振り返る。
「やっぱりケンイチは凄いわね。アタシなんて……キャッ!?」
「ありがとう。エルのおかげだ」
笑顔のエルを、剣一は正面から抱きしめ直す。すると少しだけジタバタしたエルが、すぐに剣一の背中に腕を回していく。
「いいわよ。アタシがあんなケンイチを見たくなかったってだけなんだから」
「約束するよ。二度とあんな姿は見せない」
「そう? アタシにだけなら、見せてもいいわよ? その時はまた、こうして助けてあげるから」
「ははは、そりゃ頼りになるな」
どちらからともなく腕を離し、二人の距離が離れる。だが互いの瞳に映る笑顔は、そこに距離があることなど感じさせない。
「ただいまケンイチ。おかえり、ケンイチ」
「ああ、ただいまエル。おかえり……エル」
見つめ合う顔の距離が、少しだけ近づいて……
「うぉぉ、チューするカ!? チューしちゃうのカ!?」
「こらミンミン、やめなさい! あ、クサナはまだ見ちゃ駄目よ」
「ううーっ! クサナも見たい、です!」
「「……………………」」
「ウオーッホッホッホッホ! さあ、我が愛し子エル! 遠慮はいりません、今こそブチューとするのです! これで時代の王家も安泰ですわ!」
「しないわよ! するわけないでしょ! 何なのよもー! みんなして! もー! もーっ!」
「むぅ…………」
血と滅びの匂いが残る室内にエルの叫びが響き渡り、我に返った剣一が猛烈な恥ずかしさから人生で一番しょっぱい顔をしながら視線を逸らす。
こうして中国における剣一達を巻き込んだ騒動は、ひとまずの終わりを迎えるのだった。





