九十九話 老婆
重苦しく空気を吐き出して、運ばれてきた朝食を見る。病人用に作られた味の薄い粥である。とはいえ、決して安いものではないだろう。
見れば、細かく刻んだ何種もの薬草が、麦と一緒によく煮込まれており、食欲を誘う香ばしい香りが漂っている。匙ですくってみれば、どろりとしたそれはひどく魅力的で、口に含めば、麦と薬草の香りがいっぱいに広がった。
とても病人食とは思えない、立派な粥である。それは公爵がどれだけ富んでいるかの証左であり、総力において王とも匹敵しうるという話は、決して誤りではないだろう。
自分は必要なのか。粥を無意味にかき回す。暖かな湯気と匂いが鼻孔をくすぐっていくが、彼はなおも沈痛な表情を浮かべていた。
見捨てたくない――その思いは今も変わってはいない。しかし、自分自身の逃避を知った後では、その心の正しさを素直に信じ続ける事はできなかった。
おそらく、公爵は二人を戦力として招き入れたいのだろう。いつ王との戦争が始まるかも分からない現状を鑑みれば、それも当然のことである。
加えて、ディロックはロザリア一の騎士ともある程度打ち合える剣士であり、マーガレットは不得手ながら転移魔法を使用でき、魔法使いとして高い技量も持っている。
内紛となれば、一人一人の戦力が戦局をある程度左右しかねない騎士の国ロザリアにおいて、そんな二人を遊ばせておく余裕はない。受けると話せば、ある程度の条件を決めても喜んで迎えてくれると予想できた。
しかし、もしディロック達が投入される事態になったとき。それはまず間違いなく重要な戦となるだろう。それは、相手方にとっても同じこと。王陣営にとって最大の戦力である正騎士が、現れないはずはない。
次は勝てるだろうか。そう試算すると、すぐに結論は出た。無理だ。
技量の領域において、正騎士は間違いなく、剣士として一種完成された存在――"剣聖"の一人だと言える。
ディロックとて非才の身ではなく、凡百の剣士など簡単に圧倒出来るほどの技量を備えた達人であるが、いまだ"剣聖"の名は遠いもの。一度動きを見る事が出来たとは言え、一朝一夕には越えられない。
となれば、この仕事を受けるということは、再び死の可能性と対面しなければならない。それを得られる利益と比較してみれば、どうあがいてもリスクの方が重い。相方を巻き込んでまで、盛大な自殺をする気はなかった。
だが反対に、それを覆してあまりあるのもまた、感情の問題である。逃避だとか、投影だとか、そういう事を差し置いても尚、彼は脳裏の残像をかき消す事が出来ない。
不安そうな顔。震えながら、それでも人を救おうとした手。
それらを裏切って逃げ出すことは、なんと恥知らずで不名誉なことか。まして、一度は手を伸ばしたものとなれば、なおさら。
唸りながら、ディロックは再び粥を啜る。彼が思案を巡らせるうちに、それはすっかり冷めてしまっていた。
なんとも味気ない時間を何とか乗り越えると、ディロックはふらりと立ち上がる。昨晩よりも体が大分軽い。自らの体の頑強さに感謝しながら、彼は貸し与えられた寝巻のまま屋敷を歩き出した。
さすがに剣を振るったりなんだりをするつもりはないが、それでも寝台に寝ころび続けるのは気が滅入る。多少歩く程度ならと、誰にともなく言い訳をしながら、彼は一歩一歩、歩き方を思い出すようにして足を踏み出した。
掃除の行き届いた通路は、調度品などが適度に置かれ、落ち着いた雰囲気ながらも貴族の屋敷たる威厳を醸し出しており、歩いているだけで何故だか得をしたような気分になれた。
しかし、彼の想像をはるかに超えて屋敷は広く、屋敷の中を見物するうち、やがてディロックは自分が辿ってきた道さえ怪しくなってしまった。
もとより治りきっていない傷を抱えている身。まだ歩いてきた道を覚えているうちに帰るべきと考え、くるりと踵を返す。
するとその時、すぐ隣の部屋からかすかな物音がして、足を止める。ぎし、と床が軋んだ。
「もし、そこの方」
くぐもった声がする。振り返ってみるものの、誰も居ない。よく聞けば、その声は物音がした部屋の中から聞こえてきたようだった。
こちらの方の通路は調度品も少なく、人の行き来した形跡もない。あまり人の来ないあたりだと察していただけに、彼は驚いて、部屋の方をじっと見る。もう一度声がする。今度は、よりはっきりと。
「こちらにおいでくださいな」
周りを見渡すが、誰も居ない。そこの方というのは、自分の事を指しているのだろうか。もし、もし、と言葉は小さく繰り返された。
ディロックは一瞬悩んだのち、体を扉の方へと向け、意を決してその扉を指で四度、小さくノックする。どうぞ、と返答。先ほど、ディロックを読んだ声で間違いない。
ふうと息を吐き、扉を開ける。かすかに、薬草のツンとした匂いがした。
部屋の奥へ、一歩踏み出す。そこは簡素な空間で、机が一つ、花瓶が一つ、そして寝台が一つ。
寝床の上には、一人の老婆が居た。肌は白く、しかし背筋はピンと立っており、腰も曲がっていない。半ば寝転んでいる形だというのに、その姿には隙が見当たらない。
老婆は彼の姿を見て微笑み、かすかに頭を下げた。
「旅の方、よくぞいらっしゃいました。私は、当代シェンドラ公の母、ローライン=ルプツーニク=シェンドラと申します。」




