九十一話 対面
虚無空間を潜り抜けて降り立つと、ディロックは周囲が囲まれている事を感じ、いち早く剣を抜き放つ。
飛来する矢。数、九本。その全てを視認して、先行して飛んだ四本を撃ち落とすべく、鈍色の刃が宙を舞う。
金属音、三。一本は弾くけずに、そのまま地面へと突き刺さる。状況を理解できずにいるゴーンとフランソワを守るべく、ディロックは自らの濃緑色の肩布を翻した。
矢は竜の革でできた肩布を貫通できず、ほとんどが逸れるか止まり、ディロックに向かいつつあった矢は、金属の鎧に弾かれて地面へと落下した。
ザザザ、と土を踏み分ける音。数は三十かそれ以上といったところか。続けざまに飛んできた矢を、今度はすべて叩き落とす。
マーガレットが立ち上がり、『矢避け』を掛けるまでの数秒間。手を乱れなく動かし、危うければ肩布や小手ではじき、逃しきれない者は鎧で受けた。
防御をすり抜けた矢が、鉄板を貫通し、肩に突き刺さる。鎧のおかげで深くはなかったが、それでも確かな傷だ。鋭い痛みと、かすかに血が流れていく感覚が、彼の思考を蝕む。
それを振り払って最後の矢を撃ち落とせば、『矢避け』の障壁が貼られ、続けて打ち込まれた矢の雨はすべて弾かれ、意味もなく地面へと落下していった。
一瞬の間があり、攻撃が止む。がさりと茂みから出て来たのは、黒い鎧に黒い外套をまとった、異様な騎士たちであった。
一般的に騎士と言えば、鉄の鎧に身を包んだ、戦場における"花"である。目立つため、自分が指揮官であることを示すため、あるいは捕虜にすべき相手だとわかりやすくするために、彼らは大小様々な装飾を鎧に施す。
千差万別の装飾付き鎧には、もちろん黒を基調としたものもある。だが、それは金や銀などの輝かしさをより際立たせるためのものだ。
だが、目の前の黒は違う。その黒はどうみても、夜の闇に溶け込むために塗られたもので、およそ騎士とは言い難き風体である。
風に乗って、かすかに異臭がする。鼻をツンとつく、硫黄にも似た腐った臭い。混沌の血、忌むべき水、"炎の霊薬"。おいそれと塗料に使えるような代物ではない。
騎士たちがじりじりと距離を詰める。ディロックは肩に刺さった矢を引き抜いて捨てながら、その包囲をぎろりとにらみ返した。
黄金の瞳が、カンテラの明かりを受けて煌めく。
沈黙。静かに張り詰めた空気の中で、金属のこすれる音だけが響いている。
その重い静寂の中で、最も初めに動いたのは――最も年若い、少女であった。
「――名を名乗りなさい」
今にも剣が振り下ろされそうな、そんな緊迫した雰囲気の中へ、堂々と足を踏み入れる。齢十四に満たない子供でありながら、纏う気配は洗練された貴族のそれに近い。
ディロックは一瞬、少女の口をふさごうかと思ったが、フランソワはそれを手で制した。その威圧感たるや、場の支配者にふさわしきものと言えた。
「黒き鎧の騎士たちよ、名を名乗りなさい。私を討とうと言うのであれば、なおさらに」
凛とした視線が、真っ暗な夜に溶け込んだ騎士たちの目に、たしかに突き刺さる。向けられた剣に見向きもせず、ただ騎士だけを見ていた。
――この少女は、幼くとも貴族なのだ。彼はしかとそれを感じながら、剣を握りなおした。
騎士は、困惑したようにその接近を停止する。剣も殺気も向けたままでありながら、それをどうしたらいいか、扱い損ねているようにも見える。すると更に奥の茂みから、がさりと音がして、新たな影が一人騎士達の前に立った。
現れたのは、体格に優れた黒い騎士達よりも、明らかに一回り以上は大きい男だった。
その男は全身には光を反射しない、鈍い色の鎧をまとい、剣も抜かずに立っていて、あまりにも無防備に見えるその立ち姿に、ディロックは脅威を感じる事ができなかった。
しかし、それは至極奇妙なことでもあった。
男が一歩、前へ出る。それと同時に、ディロックも一歩下がった。フランソワが不思議そうに彼を見つめる。
その顔は、矢の雨を防いでいた時よりも渋いもので。視線は、ただ一筋、男への警戒に向けられていた。
この男は何かおかしい。何故、剣を抜きあった戦場にあって、これほど無防備でいられるのか。
剣も抜かない、徒手で戦えるような構えも見せない。そんな状態の人間が、安心して出てくる事が出来る場所では決してない。なのに、一切の恐怖やとまどい、そういった感情が見受けられなかった。
その騎士は無防備のままに黒騎士の前に立ち、手を挙げて彼らを一歩下がらせると、簡易な拝謁の仕草をした。
「失礼、フランソワ嬢。彼らには名が無いのです。代わりに、私が名乗りましょう」
フランソワはそれに、ぞんざいに手を振って返すと、続けて再び、名乗るよう要求した。
静かに左足を引き、右手を握りこみ、胸の前へ。静かで優雅な動作。
震える。通常、戦士と言うものは鍛えれば鍛えるほど戦いから心を離せなくなるものだ。いつでも有利になるよう位置取り、剣を手放そうとしなくなる。ディロックもその手合いだ。
だが、その男は違うのだ。戦場にあり、剣を帯びながらも、戦いの姿勢を見せない。傲慢ささえない、静かに凪いだ余裕が、男の異質さを彼の目にありありと示していた。
「フランソワ嬢。まことに遅ればせながら申し上げます。私はローガン・テンダラス」
ざり、と土の音。姿勢を正し、こちらをまっすぐと見つめながら、ローガンと名乗る男は言葉をつづけた。
「――正騎士を務めております」
風が、途絶えたように感じた。




