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青空旅行記  作者: 秋月
二章 本の国ルィノカンド
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五十九話 壁画

 裏切りの賢者、名も無き賢者。彼は建国者たる五人の知識人のうち一人であり、かつて自ら作った国を破壊しようとした人間でもあった。


 そして、名が残っていない事を含めその存在には謎が多く、その為無数の説か彼の謎を取り囲んでいる。


 なにせ、出自、本名、性別、専門、何一つ残っているものがない。明確に残っているのは、ただ賢者達を裏切り、(たばか)って殺したという罪だけである。


 壁画は、そんな彼の記録を描いているようで、しかし、これはおよそ裏切った後の話のようだった。そしておとぎ話とするには――いささか、血生臭すぎた。


 手には剣を握り。辺りには血、そして生首。少なくとも一人二人などという可愛らしい量ではない。処刑人もかくやと言う様子で立っているのはしかし、華奢な様子の五人目の賢者であるようだ


「晩年、彼が狂って居たとしても……もしこの様子であったなら、賢者達とて騙されはすまい」


 マーガレットがどこか呆然としたように吐き捨てる。気分が悪いのか、そのまま目を背けた。壁画はまだ続いている。


 次の場面では、血だまりから沸き立った煙のような何かが、二人の杖を持った男に襲いかかる様子であった。その意思強く厳格そうな雰囲気を察するに、賢者達――裏切りの賢者に殺されたとされる二人であろう。


 壁画を辿れば、それからの流れは、およそ歴史書の内容と遜色ないようだ。裏切った五人目の賢者は、感づいた残り二人によって国を追われ、最終的に自らで命を断つ。


 そして、壁画の中でもまた、彼は湖へとその身を投げていた。


「湖……そうだ、湖だ」


 自らでこぼした言葉を拾い上げたその瞬間、ディロックはそういえばと思い出す。彼の最後――身投げの場面についての疑問であった


「読んだ本でも、有力説でも湖に身を投げているが、何の暗喩か?」

「いいや。あれは直接身を投げたという解釈であっているはずだ」


 暗闇の中でカンテラを見つめていた彼女は、彼からの問いに対してすぐにそう答えた。


 ふ、とマーガレットが振り向く。彼と見詰め合った青紫の目は、深い考慮に満ちていて、無数の理論がその中で渦を巻いているようにも見えた。


 壁画から目を逸らしていた彼女であったが、おおよそに目星をつけていたのか、その指先は迷うことなく湖に身を投げ込む場面へ向いた。


 彼女が指差した場所には、湖の奥底、体を横たえる五人目の賢者の場面が描き出されていた。


「屍骸か」

「うむ。魔法による死の偽装も考えられ、非効率的な『潜水(ダイブウォーター)』の魔法を使ってまで確認されたそうだ」


 死体は見つかった。無言の中に含まれた意味を察して、ディロックもまた壁画をじっと見つめた。


 湖の底に沈んだ遺体は、そのままどこかの墓の下へ葬られたようだ。逆賊である者を丁重に葬るのは、怨念のままに亡霊となる事を恐れたからだろう。


 亡霊(レイス)とは、常に理の外側にあるもの。神聖な儀式――すなわち弔いによって怨念を払い、魔力を通さぬ石の墓で封じなければ現れ、そして現世に害を成すものである。


 一般的に、その怨念が強ければ強いほど、より厄介な亡霊が生まれるとされている。共に国を作った友を謀って殺し、死の間際まで恨み言を吐いたとされる彼の(うら)みは、どれだけ濃いものであったのか。


 明確にどの程度という分け方は出来ないが、少なくとも当時の人間が恐れるだけのことはあったのだろう。


「しかし……これが態々秘匿された理由が分からんな。最初の部分以外、今に伝わる伝説と大差ないが……?」


 壁画をなぞりながら細々と呟くマーガレット。しかし、その白く細い指は唐突に止まり、そのかわり、すぐ隣に立っていたディロックを突いた。


「ディロック、すまないが、此処を見てもらえないかね」

「どうした?」


 ふっと彼が振り向くと、彼をつついた指はまた壁画の方へと戻り、ある一点を示していた。先ほどの墓の場面だ。並の墓より一回りは大きく、それは深い弔いと同時に、怨念への恐れもまた描き出されているかの様である。


 とはいえ、一見すると墓以外には何も彫られていない様に見える。マーガレットが指摘しない以上魔法的な仕掛けも無いのだろう。


 ディロックが首をかしげると、彼女はここだ、と言って墓の周りをなぞった。


「暗くて良く見えんが、何かある。うっすらとだが……君には見えるかね?」


 既に『暗視(ナイトビジョン)』の魔法は切れていたらしい。見れば、その目から猫の目のような光は既に失われており、カンテラの心もとない明かりで観察を試みていたらしかった。


 とはいえ、暗闇は彼にとってさほどの障害足りえない。カンテラの光を受けて金色に反射する瞳が、壁画を見据えた。


 すると、それは彼にも見えた。大きな墓から、なにやらほっそりとした線が出ていたのである。


 さほど薄くも細くもない線であったが、ひどい暗闇にカンテラの小さな明かり、そして壁画そのものの威圧感もあいまって、目の良いディロックもそれに気付くのに数分を要すほどであった。


 その線は墓の下から伸びていて、亡者の腕のようにゆらりと中空を漂ったかと思えば、弧を描いて別の場面へと向かって伸びた。


 それがどこか、酷く不気味で、彼は小さく身震いする。文字一つ無い壁画は、意味深で、読み解くのは難しい。だが、何の変哲も無いその線に、おぞましい何かを感じるほどに気迫が込められていた。


 悪寒に震える体を押さえつけ、彼は至極平常心のように取り繕いながら、指でその線の先をなぞる。場面を飛び越えてさかのぼり、亡霊の手が伸びた先は――湖の底である。


 死体に戻るでもなく、そこで亡霊の手は、跡形もなく途切れてしまっている。


「何か見えたのかね?」


 不意な声にディロックの体がびくりと一際大きくはねると、ソレを見て彼女は、得心したように小さく頷いた。


「その様子だと、”何か”はあったようだ」

「……ああ。暗くて見難いが、線のようなものが伸びて……湖の場面に繋がっている」


 うわごとのように、不気味だ、と彼は呟いた。しかし、言い表せない恐れはしばらくすると落ち着き、悪寒から来た震えもじきに収まった。


 そして改めて、凄い壁画だと認識する。この場合、どちらかと言えば作者の執念を、であるが。

 

 何せ、これはただの壁画なのだ。魔法の力も秘めてはおらず、即ちその壁画によって起きた怖気とは、見たものが感じ取ったものに他ならない。


 それだけの恐怖を、ノミやらなにやらで壁の石へと写し出したのだ。その壁画の作者が誰かは知れずとも、名のある者の作品であると確信するのに不足はなかった。


「墓から湖へと伸びる、手の様な線、か」


 しばし沈黙と暗闇が場を支配する。カンテラの心もとない灯し火が、闇の中に広場の輪郭をぼんやりと映し出していた。


 名も知られぬ五人目の賢者が身を投げ、自ら命を断ったとされる湖。何かしらがあるのだろうが――あるいは、その"何かしら"が、この壁画が秘匿されるに至った経緯なのかもしれない。


「当時の『潜水』程度の魔法でも、水底の探索ぐらい……となると……」


 ぶつぶつと呟くマーガレット。学者気質な青紫の目が、深い思考に追随するかのようにきょろきょろと動き回り、時折ディロックの知らない言語で何事かをニ、三呟く。考えを整理するのに、言葉に出す癖があるのだろう。


 しかし、比較的早く思考を切り上げると、彼女は杖を握り直し、ディロックへ向かって声を掛けた。


「一旦、地上へ戻ろう。落とし穴の起動要因も考えなくてはならん」

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