四十五話 書生の乱闘
また店内に戻ってきた三人は、少し冷めてしまったコーヒーを飲みながら先の論争について話した。
「"哲学派"、"文学派"……つまり五人目、名無しの賢者は一体何を専門として学んでいたのか、という議題だな」
ガイロブスがそう言って、つい先ほど自分で淹れていたコーヒーを少し飲む。飲みなれているのか、ブラックと言うらしいほとんど黒いままのコーヒーでも少しも怯む様子はない。
マーガレットの勧めにより、ディロックのコーヒーには牛乳が足されていた。その為、今彼の手元にあるのはやや薄茶色のコーヒーとなる。
こちらはこちらで苦味が薄れ、牛乳の甘みとコーヒーの風味が良く合わさって美味い。しかも、苦さが弱くなった分、あまり慣れていないものでも飲みやすいだろう。
誰ともなく頷きながら、彼は話に耳を傾ける。コーヒーを少しずつ味わうように飲んでいる店主に代わって、今度は彼女が続けた。
「名無しの賢者は裏切りの賢者。それが原因かは分からないが、明確に彼が書いたとされる本は見つかっていない」
他の賢者の文献に五人目の専攻学問について考察できそうな文はあるが、それも曖昧なのだ。マーガレットはそう言って、中空に円を描くように指を回した。
「それゆえに、彼の学問はたびたび議題になるのだが……。言ったとおり、今回は特に長い。他の論争が鳴りを潜めてしまうぐらいにはな」
口を湿らすように、マーガレットはコーヒーに口をつける。少し顔をしかめたのは、苦さではなく、冷め方が悪かったからだろう。
「問題という程ではないが、王都の者たちにも飽きは来ている、と」
「うむ」
小さく頷いた彼女を見て、ディロックも少し眉を顰めた。
彼の旅に、これといった目的はない。ただ道中で美味いものでも食べて、その国独特の何かを見て、また何処かへ行くというのが彼の旅路だ。その途中で問題にはさまれるのはしょっちゅうの事だが。
しかし、ルィノカンド独特の行事たる論争が一つの議題でしか行われていないとなると、本来のルィノカンドの姿とは少し異なってしまっているのではないか? ディロックはそう思い、その考えをそのままマーガレットへと問い掛ける。
「普段はもっと論争が?」
「ああ、私も参加したことがあるがね。ほぼ毎日、広い王都のそこかしこで大小問わない論争が行われているよ」
「……今は五人目の議題で占領されちまっているがな」
店主がぼそりと呟く。やはりそうか、とディロックはまた一人頷いた。
議題が解決するか、あるいは一先ずでも終結を迎えてくれれば良いのだが、大声で論を語っていた二人の様子を思い出せば、それにはもう半年ほど必要そうだ、とディロックは思った。
コーヒーを飲み干して、頬杖をつき、目を細め考える。自分が半年もルィノカンドに滞在するか? 自分の奥底から返ってきた返事は、否。
一所に居たくない。何故かは分からない。旅をすると覚悟してから九年、曲がらず彼の奥底にあるその思いが、そう返事をしたのだ。
ならそれに逆らう理由も無い。再び目を開いた。
すると、ふと音が止んだことに気がついて、彼は窓の外をまた見た。
論争が終わったのだろうか。いや、そんなはずは無い。音はついさっきまで段々と大きくなっていたのに、急に止まるなど、普通は無いだろう。
そして再び、大声が聞こえ始めた。しかし今度は違う。理論だった言葉が聞こえて来るのではなかった。喧騒といえるような、賑やかなたぐいでもない。
「……なんだ?」
「何かあったらしい」
話し終わったきり、ずっと黙り込んでコーヒーをすすっていた二人も、音の変化を不審に思い、眉を寄せて外を見る。
その時、何かが割れるような音がした。確か、論争をしていた近くに、ガラス窓の店なんかもあったはずだ。
ただ事ではない、と三人ともまた立ち上がった。先ほど行って来て、戻ってきたばかりではあったが、それでも無視していい事態ではない。
それに加えて、ディロックは二人には聞こえなかったであろう悲鳴までも聞き取っていた。一人旅、自分で敵の発見から対応までしなければ成らないディロックの耳は、下手な斥候よりも良く聞こえるのである。
その耳に届いたのは、喧噪などとは程遠いものだった。
鈍い打撃音、小さく漏れる悲鳴、怒号――喧嘩の音。それも、かなり大規模なものだろう。少なくとも物騒なことに変わりはない。
「どうも、喧嘩らしい」
ぼそりと呟いた彼の言葉に、三人で顔を見合わせると、結局また店を閉めて外に出ることになった。
急ぎ論争が起こっていたはずの大通りまで出ると、瞬間、ディロックは言葉を失う。
先ほどまで理知的な語りあいの場であったはずの通りは、既に乱闘の場所へと変わっていた。決して力の強くない書生たちによるものではあるものの、それでも喧嘩は喧嘩。
明らかに椅子かなにかで殴られた後のある人間が路地近くに転がっており、マーガレットが素早くその傍にしゃがみこむ。
「……安心したまえ、生きている。殴られて気絶しているだけだ。だが……」
ただ事じゃない。触診して無事を確認した女から目を離し、大通りの乱闘へ目を向けながら、マーガレットは呟く。
少なくとも、今目の前で行われている乱闘が、国の法にのっとったものだとは思えない。衛兵が騒ぎを聞きつけてくるには今しばらく時間が掛かるに違いなく、その間にけが人が出ることも明らかだ。
どうするか、と一瞬逡巡したディロックだったが、すぐに結論は出た。
近場の一人、今しがた喧嘩相手を殴り倒した男に向かって、彼は大声で語りかける。なんにせよ状況確認が必要だと判断したのだろう。
「おい! 何があったんだ!」
返答は、無言の拳。彼は咄嗟に対応できず、鈍った音ともに、握りこぶしが頬に直撃する。
頭を派手に揺らされ、一歩たたらを踏んだディロック。言葉にすらなっていない何事かをわめき散らしながら、書生らしき男が再び拳を振り上げた。
だが、その拳が振り下ろされるよりも先に、ディロックの反撃があった。
たたらを踏んでのけぞった体を、体の筋肉だけで無理やりに引き起こし、一歩踏み込んで振り下ろしかけの拳を避ける。そしてその下あごに、思い切り握り拳を叩き込み、そのまま振り抜いた。
鉄の篭手をしていないとはいえ、鍛え上げられた戦士の拳である。書生一人、軽く宙に浮かす程度、造作も無い。
宙に浮き、どうと倒れた男が再び起き上がる事はない。顎への一撃で脳が盛大に揺らされ、気絶したのだ。
やった瞬間、しまった、と思った。ほぼ反射的に殴り飛ばしてしまったが、これは正等な防衛行動として認められるだろうか? 旅行者でしかないディロックと、書生の男。訴えられればどちらの言が信用に足るかは明確だ。
困った様な表情――殴られた右頬が腫れている――のまま、ディロックは二人の方を見た。すると、向こうも困った様な顔はしたが、大きく頷いて返した。
ガイロブスにいたっては、虚空に向かって二度、三度、拳を振るジェスチャーすらしている。他もやってしまえ、と言っているのだろう。
そんなガイロブスに苦笑いを浮かべたディロックは、乱闘の方へ振り返ると、再び拳を強く握り締めた。
全力でやると書生の骨が折れかねない。適度な力で、この乱闘に参加している全員を気絶、ないしは無力化。狂乱の具合から見て、後者は難しい――そこまで考えて、彼は溜息を一つ漏らした。
やって出来ないことはない。ないが、多少面倒である事になんら変わりは無い。
結局、衛兵が現れるまでの一時間ほどの間に、ディロックは全ての書生を殴り倒す羽目になった。




