四十四話 論争
適当な肉料理と一緒に出されたコーヒーという名の飲み物を見る。
コップに注がれたそれは、かなり黒に近い茶色をしていた。湯気が出ているという事は温かいのだろう。それに献立にあるのだから、少なくとも人間が飲めるものである事は間違いない。
しかし、彼は少し躊躇せざるを得なかった。
なにせ、コーヒーの色は彼が知っている飲み物の色から強く逸脱しており、一番近いもので泥水という有様。どういう飲み物なのかも分からない以上、それは完全に未知の飲料である。
ふとマーガレットの方を見てみれば、彼と同じものを注文してこそ居たが、その色は少し薄くなっている。薄茶色ほどになったそれをゆったりと飲む彼女を見て、ディロックも意を決して飲んだ。
「……ほう」
彼女が少し感心したような声を出したのが聞こえた。ディロックはまず強い苦味に驚いたが、しかし舌にこびりつくような苦味ではなく、それは喉の奥へとすっと消えていく。
そうして苦味の中わずかだが不思議な風味と後味を感じ、美味いな、と彼はこぼした。
「ブラックコーヒーを初見で飲んでその感想が出るとは、君は中々凄いな」
「まぁ確かに、かなり苦いがな……」
彼の感想としては、普通の――昼食や夕食となるような――料理とあわせるのは少し苦すぎるだろうか、という感想である。
舌に残るような、嫌な苦さとは無縁だ。しかし、それでも強い苦味である事に変わりはなく、他の料理の美味しさを殺してしまうように思ったのだ。
軽食であれば、多少は問題ない。味気の少ないものと一緒に食べるのであればそれは充分無視できるだろう。もし甘味と同じでも、締めに飲むのであればむしろ逆に口直しという使い方もありか。
「ルィノカンドでは有名な、"眠らずのアスリー"という学者が発見したんだがね。それを飲むと眠気が何処かへ吹き飛んでしまうのだよ」
寝る間も惜しむ学者たちの中では人気なのだ、とマーガレットは語る。その中から愛好家が出てきて、コーヒー研究会なるものも存在しているという。
肉料理も中々の味だった。調味料が多少使われているのか、はたまた純粋な店主の腕前によるものなのかは分からなかったが、それでも美味いことに変わりはない。程よい焼き具合も評価に値するものだった。
――なるほど、良い所だ。ディロックはマーガレットに礼を言った。新しい国に来て早々、いい店を見つけられるというのはあまりないからだ。
すると彼女は手をパタパタと軽く振りながら気楽に返した。
「なに、気にする事はない。私は私で、君を紹介する事でガイロブスの新作料理を食べられるというメリットがある。この寂れた料理店を潰さないために飯を食ってくれればそれで構わんよ」
「お前はなぁ、口を開けば人の店に文句ばっか付けやがってからに」
彼女の軽口に店主が苦言を呈す。巌のように硬くきびしい顔、その眉間に幾重にも皺が寄っている辺り、何時もの事なのだろう。
マーガレットは笑いながら平謝りし、コーヒーを一口すする。その親しげな雰囲気がディロックはどうにも好きで、ふ、と少し微笑んだ。
するとその時、外が騒がしくなった。このガイロブスの店――"大きな小人亭"と言うらしい――はやや路地にめり込むような形で建っているが、表通りとそこまで離れているわけではない。
となれば、大通りで何かあったのだ。彼は視線を鋭く窓の向こうに投げかけたがしかし、警戒は二人の言葉であっというまに氷解した。
「おや、また討論かね。最近はなにやらおおいように感じるが」
「どうせ哲学派と文学派のだろ? 良く飽きないよなぁ」
二人ののんびりとした空気に、一人気を張り詰めていたディロックは拍子抜けした。
「なぁ、すまん。この喧騒は何時もの事なのか?」
マーガレットとガイロブシは、彼の言葉にふいと顔を見合わせた。
その不思議な動作に彼が首をかしげると、ああいや、と彼女は切り出した。
「君はまだ見ていなかったのだね。すまない、すっかり忘れていた」
ゆったりと席を立ったマーガレットはそのまま荷物を担ぐと、ディロックにも立つよう促した。店主は元々立っていたが、割烹着を脱いで外出の準備を済ませている。
なにが起こっているのかもわからないまま、ひとまず言われたとおり彼は立ち上がった。持ち物といえば身一つと咄嗟に戦うための剣と、いくらかの品だけである。身軽なものだった。
「まぁ、大量の本、コーヒーに次ぐ名物とでも言おうか……違う意見を持った学者や研究者による"論争"だよ」
マーガレットはそう言って、クルリと踵を返して扉の方へ歩き出した。店主もそれに続いたので、彼もまたその背を追いかけた。
路地を出て大通りの方へ戻ると、それはすぐに目に入った。
「――しかし五人目は文献中でこう言ったと記されているぞ! "本は人を育て、人はまた本を書く"と!」
「その言葉は哲学的、抽象的な意味を多分に含んでいる、証明にはならない!」
「いいや、五人目の著作は全て行方不明だが、それでもやはり何十冊何百冊と書いていたのは違いない。いかに星の数ほどある哲学といえど、それほどの本がかけよう筈もない!」
「同じ内容の本で連番と言うこともあるだろう! なまじ、哲学を逐一解説するには膨大な文字数が必要に――」
「だが――」
なるほどたしかに、これは論争、というのが一番正しい。男が二人、通りを挟んでおいてある台に上り、互いの主張をぶつけている。
声を出しているだけではない。本を突き出したり、握りこぶしを作ったりと体のほうも忙しなく動いており、話している男達以外にも、壇の近くに居る者たちは殆ど論争に加わっている者らしく、しきりに声を上げる。
彼は途中から聞いただけだが、その内容を鑑みれば、賢者――五人の知識人のことだろう――の五人目に関する事なのだと分かった。
「意見が食い違った時、互いに納得するまで、ああして互いの論と証拠をぶつけるのだよ。大々的にやる必要は無いのだが、まぁ、ああいう形でやられるのが一番多い」
なるほど、本の国――思想や論説が入り混じる国らしいといえば、らしい。
あるいは、分からない事を分からないままにするのが気に入らない、そんな知識人たちの思いから出来たものなのかもしれないが、自らの論を証明しようとするその姿勢はひたすらに前向きだった。
この国の知識人は何処か他の国の者たちと違う、とディロックは目の前で行われている論争を見ながらそう思う。
なにせ他の書生の類といえば、来る日も来る日も文献を読み漁り、多くは自己完結してしまう。そうでなくとも、本から得た知識や閃きを人と共有することなく、自分の書としてしまうことの方が多い。
そういう理由もあり、昨今は閉じた世界になってしまった学問において、こういった論争は珍しい。だがきっと、悪いことではないのだろう。
彼がそうして一人納得していると、店主が退屈そうに呟いた。
「"哲学派"と"文学派"……確かに大きな議題ではあるが、さすがに飽きてくるな」
「……長いのか? この議題の、あー、"論争"は?」
ディロックがその呟きに対して問い返すと、ガイロブスは禿頭を掻きながらゆっくりと頷く。
「一つの議題に対して、論争は大体一ヶ月、長くても二ヶ月ぐらいで終わるんだが……」
この論争はもう半年続いてる、とうめくようにガイロブスは続けた。
その様子を見るに、本当に例外たる長さなのだろう。よくよく論争の様子を見てみれば、それぞれの派閥の中には何処か疲れたような顔をしながら参加している者の姿が見えた。
溜息をついて、マーガレットも同じように退屈な様子で口を開く。
「まぁ、悪いことでは無いのだがね。是非を問うにしろ、いつまでも議題が変わらなければ、飽きも来るというものだよ」




