百六十三話 躓かない様に
果たして、二人はまたしても旅を再開した。吹雪もすっかり止んでいたし、混沌もおおよそ殲滅でき、もう足を止める理由もない。
復興は見届けたいが、ひとまず村の場所にまで戻れただけで充分だ。誰一人死ななかったし、建物や家財の損傷も少なく、立て直しに時間がかかることもないだろう。忙しいだろうからと見送りは謝辞し、ともに歩くのはオヴァト一人である。
「……世話になったな」
「いや、こちらこそだ。最初は凍死寸前だったからな。命の恩と比べれば安いものさ」
「それでもだ。……何も失わずに済んだ。村も、わしもな」
ザク、ザク。雪を踏みしめる音と共に、山と麓の境界線が近くなってゆく。
短い間だったが、全く激動の日々であった。おそらく、それは全員にとってのことだ。誰一人安寧を感じる人は居なかったろう。
その中で、ただ一つの命さえ、失わなかった。それはディロックにとって、僅かな慰めのようにも思える。一番守りたい人を守れなかったこの手でも、こぼさずに拾えるなにかがあったのだと。
「……行くんだろう、旅人。まだ旅を続けるのだろう」
「その予定だ。東の最果てまでもう少しだからな……あんたはどうする?」
「わしはもう年だ。今回の無茶で身体もちと痛めた。このまま、余生はここで過ごすさ」
遠くの方の空を仰ぎ見る老人の目は、よどみなく、ハッキリと澄んで見える。ディロックが黙り込み、代わりにマーガレットが問いかけた。
「旅は終わったのだな、オヴァト殿」
「ああ。わしの旅は、ようやく終わったよ」
二人はオヴァトと別れ、雪の残る道をのしのしと歩いていた。空はすっかり晴れていて、何時間か歩けば、山もすっかり遠い。
「なんとかなったな」
「肝は冷えたがね」
二人は何気ないことを話しながら、太陽が昇る方へ歩を進めた。明るくて暖かい。白色と灰色、冷たさと険しさだけが淡々とそびえたっていた白き山を降りたことを、改めて実感して、ディロックははぁ、と息を吐いた。
寒さは苦手だ。だがそれ以上に、"白"は嫌な記憶を思い出させる色でもある。前もろくに見えず、音さえ閉ざされる吹雪の中で、彼は否応なしに自己の内側を覗かされる事になった。
「……雪はしばらく勘弁だ」
「おや、しばらくでいいのかね? 私は一生嫌だ」
「お前、魔法で楽していたろう」
「帽子にね。雪が散々積もっていたのだよ……」
まるでまだ、雪が残っているかのように帽子を払うマーガレット。彼は苦笑をこぼし、それから遠くで登り始めた太陽に目をやった。
大陸の東果ての街――そこから、最果ての島へ。あてどなく続けた旅ももう十年。無駄に年ばかり重ねてきて、剣を振り、魔法をかじってきた。それも終わる。
それが、少しだけ、寂しい気もした。
「ディー、どうかしたのかね?」
「いや。……次の街で、最果ての島へ船が出てればいいんだが、とな」
「まぁ、出てはいないだろう。ついてから考えるとしよう」
「そうだな、マギー」
彼女はおや、と片眉を上げた。少し気恥しくもあったが、ディロックは努めて平然を装った。
「おやおや。随分、親し気な呼び方だね。私はかまわないが……どういう風の吹き回しかな」
「……旅の、仲間だからな」
今まではいなかった、旅の仲間だ。彼はそうつぶやいて、あふれ出しそうな思いに蓋をするかのごとく、足元の石を蹴って転がした。
自分でも言い表せない心に、彼は現在進行形で困惑していた。共に歩ける事が嬉しく、共に戦える事が喜ばしい。手放せないのに、失う事が恐ろしい。ずっとずっと、封印してきたそれに、ディロックは向き合った。
「……ずっと、一人旅だった。もう孤独だと思っていた」
「うん。それで?」
「だが、そうじゃない。沢山の人がいた。故郷にもいるし、それ以外でも多くに出会った」
父はまだ生きているだろう。母も恐らくは。祖父母はもういないだろうが、故郷の友人も健在であろう。ただ一人、思い出に一番残っている顔が、もうこの世にいないだけで。たったそれだけで、彼は一人、世界に取り残されてしまったような気がしていた。
それにもう十年近い旅の中で、沢山の人に出会った。剣を教えてくれた師匠。時計を作ってくれたドワーフの職人。道の幸いを祈ってくれた修道女。兄弟と殺し合う事になった騎士。決死の覚悟で戦い抜いた少年。死に囚われ、しかし死と向き合った老人。
それから、妙ちきりんな魔法使いの女。
みんな、みんなこの世界に生きている。目の前にいたのに、そんなことにさえ気づけなかったのだ。失うのが怖いと思って、初めて気づいたのだ。随分馬鹿らしいことだった。
「結局、俺を孤独にしていたのは、俺自身だった」
「……そうかね」
マーガレットの笑う声が聞こえる。嘲笑ではない。それはまるで、木々の芽吹きを喜ぶ春風のような笑い声だ。彼女も嬉しいのだろうか。
「まぁ、それが分かっただけで大進歩さ。後はけじめをつけるだけだ」
「けじめ、か」
「ああ。長く続いたものは、そうして終わらせねばな」
空を見上げると、すっかり晴れ渡った青空が見えた。遠くに大きな雲が見える。ぼんやりと包み込むようなそれに、誰かの顔を幻視する。結局、そこには誰も居ない。もう思い出にしかいないのだ。辛くても朝は来て、悲しくても腹は減る。だから生きていくしかない。
せめて、その生が、少しでも明るいものであればいい。ディロックはかすかに目を瞑り、それから再び見開いた。視線は道に、道の先に。下手くそでも、つまずかない様に、どうにか歩いていくのだ。
「さ、行こう。港まではもうすぐだ……偶然、気の違ったやつが最果て行きの船を出したりしてくれないものか」
「そんなこと、あればいいがなぁ」
「何かに乗って空を飛んでいった方が早そうだぞ。君、竜とか飼う気はないかね?」
「飼わんし、飼えん」




