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青空旅行記  作者: 秋月
五章 白き山マーダヴァ
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百六十話 白い流れ

 ディロックはの限界は、比較的すぐに来た。そもそも、先程からずっと戦い通しだった上に、三十分もの大立ち回りが加わったのだ。いかな丈夫といえど過酷が過ぎた。


「ディー!」

「問題……ないッ!」


 膝をついた戦士に隙ありと見たか、とびかかる狼を拳で打ち払い、刃を振るって裂き、退ける。だが、数が多すぎる。


 こちらの戦列はたったの二人、対する狼は五十を優に超え、倒しても倒しても補充されて減る様子がない。すでに亡国となった国では、予備兵を大量に準備し、減るたびに補充することで相手を威圧する軍隊があったといわれるが、これはまさにそれだ。


 切っても蹴っても殴っても、焼いても撃っても払っても、次から次へと湧き出す毛皮の大波。堅固な鎧に身を包んだディロックでさえ、すでに小さな擦り傷と切り傷にまみれている。集中が切れかけているのか、マーガレットも何度か危うい場面があった。


 荒く息を吐きながら、彼はあたりを見渡した。もうすっかりあたりは暗くなり、雪の白が月光を受けて輝いている。ここにきて、夜目が効くのが仇になりつつあった。雪の反射が目を焼くのだ。


 だがその一方で――彼は何かを掴みかけてもいた。


「違う……違うな。振るんじゃない。踏み込むでもない……マギー! 俺の周りを焼き払ってくれ!」

「君は全く無茶ばかり……っ! 『炎嵐(ファイアストーム)』!」


 掲げられた杖から魔力がうねり、うねりが熱の風となって吹き荒れる。かすかに肌を焦がしながら、雪を、狼を焼き溶かしていく赤い嵐を前に、彼は少しも動じない。それ以上に考えるべき事があったからだ。


 地に積もった雪が、自身の足に重く覆いかぶさるのはなぜだろう。老人はああも簡単に歩きぬけていったというのに、それ以上の膂力を持っているはずの自分にはこうも重いのはなぜだ。ディロックは戦いのさなか、そんなことを考えていたのである。


 それは疲れ切った思考の産物だったかもしれないし、かすかに芽生えた剣の腕への矜持だったかもしれない。


 雪の溶けた地を踏みしめ、とびかかる狼を一閃し、その後ろから迫る狼もまた剣で打ち据える。これですでに四十二、ずいぶんと数は殺したが、狼の群れは未だ途切れない。


「……やるかね?」

「まだだ。もう少し、あと少し」


 力なく震える指先で、剣を握り直す。犠牲になるつもりはないが、仮にこの戦いがどうにか終わったとしても、その後、ディロックに余力は残されていないだろう。狼の一匹でも取り逃せば、後にどういう禍根を残すことになるかわからない。


 来る。敵が来る。


 黒い津波のようなそれに対し、ディロックは半身で構えた。もう、力強く踏み込む分の体力さえも残っていなかったのだ。ずるりと滑るような踏み込みは、ディロックの理想とは程遠かったが、それでも剣に加速を与える。


 困惑のままに振りぬかれる刃の先で、狼が真っ二つになった。


 水面に指を突きいれたような感覚だった。あれ、と思うようなあっけなさで、抵抗も何もないままに、剣が空を舞う。指先が反射的に動いて、狼が()()()かのように切れていく。


 呆然と刃を閃かせながら、ディロックは遠い昔、師匠から聞いた剣の事を思いだしていた。


 ――いいか、ディロック。いつかお前も、力じゃなく、技でもなく、ただ体のどこでもない所で剣を振るう領域にたどり着くだろう。そこがひとまず、俺の知る剣の境地だ。


 これがそうなのだろうか。両手で握り直し、また振るう。風の抵抗がない。自分の身体が空を飛んでいるかのような、ふわふわとした、曖昧な力の感覚だけがそこにあった。


 踏み込みのままに、跳ぶ。狼の波を剣先がぬるりとかき分けて、一筋の隙間を作り出す。雪へと降り立っても、ディロックの足はもう囚われなかった。


 踏み込むから、足が囚われる。強く踏み込めば踏み込むほど、雪は力のままに足を沈めて、鉄ほどに重たい枷になる。


 だからこそ脱力が彼に力を与えたのだ。そして適度に抜けた力が、雪の重さから体を解放したのである。軽々と走り回れる限り、この程度の数に負けることなどない。


 雪を滑るように蹴って更に飛ぶ。狼の波をかき分けて、奥へ、奥へと突き進めば、穢れ狼たちとて追いかけざるを得ない。囲むように動いていた彼らは、今ディロックを追いかけて、縦に長く長く伸びつつあった。


 これなら、やれる。ディロックは確信のままに、口を開いた。呟きに近い小声だったが、雪の静寂の中、マーガレットはきっちりと声を拾った。


「――マーガレット」

「やるさ、やるとも。生きろよ、ディー」


 爆ぜる。炎が爆ぜる。長く長く、唸るように続けられた詠唱が、ねじ曲がれと命じられた世の理が。今マーガレットの頭上に、小さな太陽を生み出していた。赤でもなく、青でもなく、白く煌々たるその光は、まさしく天に上る火の星のごとく。


「『落日火(サンセットボム)』」


 轟轟と音を立てながら飛んだ火は、瞬く間に山の尾根近くに着弾し――そして、白い波が起こった。


 雪崩(なだれ)である。人の背丈の三倍はあろうかという、土石の混じった雪の重量と圧力、迫る自然の猛威を前に、穢れ狼はなすすべもなく飲み込まれていった。ディロックもそうだ。


 そして全てが白い流れの中へと取り込まれ、やがて制止すると、世界は再び静寂を取り戻す。しんと静まり返った山肌の上、マーガレットは不安そうに宙に浮きながら、杖を強く握りしめていた。ただ一人の無事を祈りながら。

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