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青空旅行記  作者: 秋月
五章 白き山マーダヴァ
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百五十六話 情

 集落まで降り、ディロックたちは事情を話した。人を食らう狼が来ると。今すぐ、この山を下りて、近くの街へと向かうべきだと。


 狼が何匹いるかわからないが、数十匹単位でいることは明らかだ。既に食料を取られ、防備のゆるさも判明している以上、ここの安全性は野宿と比べても大差ないというほかない。動ける余裕があるうちに、動ける猶予があるうちに、山を降りなければならない。


 当然、集落の者たちの反応は渋かった。だが、オヴァトが彼と同様の警告を発した途端、村長はすぐに判断を翻した。今すぐ、避難の準備をするようにと。


「オヴァトさんが降りるべきというべきなら、降りるべきです。この人は何度も村の危機を救ってくれた。一度も嘘やデタラメを吐いたことはない」


 実感のこもった言葉に、渋い顔をしていた幾人かも唸り始める。否定する人間がいない。それは、オヴァトが積み上げてきた信頼の証だ。今回ほどの事でなくとも、幾たびも集落の危機と戦い、そして勝ってきたのだろう。


 思えば、初めにオヴァトの小屋を訪れた時から、困った時に頼りにされている様子はうかがえた。彼もまた、お人よしであったのだ。


「……では、麓に近い村に一時避難。それでいいですね?」


 意見がまとまると、村人たちの動きもまた早かった。持てる限り多くの家財道具を持ち、すぐさま家を立てるだけの準備を始めた。


 雪山は過酷な環境である。ちょっとした気候の変化であ、っという間に人の住めない状況になるからだ。酷い時にもなると、雪崩もあり得る。


 なぜ雪山にすみ始めたかなど、ディロックたちも、住んでいる彼ら自身も、知るすべはない。雪山に住むことを決めたのは彼らの遠い先祖だ。だがどんな理由があれ、ここで生きていく以上、進退は鮮やかでなければならなかった。


 支度の最中、ディロックは山頂の方をじっと見ていた。あの時の視線が、狼の目が気になったのだ。


 真っ黒に染まった姿は、間違いなく混沌のそれ。人を憎悪し、命ある全てを恨むその目線は――しかし、ディロックではなく、どこか違うところを見ているように思えた。


 答えなど出ようはずもない。狼は何もしゃべらないのだから。


「だが……ふむ」

「何か気がかりでもあるのかね、ディロック」

「いや……少し考え事を、な」


 ぱっぱと少ない荷物の整理を終えたマーガレットが、気が付けば隣に立っていた。いつの間に近づいていたのだろうか。それとも、最初から隣にいたのだろうか。


 彼が黙りこむと、彼女もまた黙り込んだ。ゆったりと細められた目は、好奇心に揺れているようにも、慈悲深く待つ女帝のそれにも見える。マーガレットはこういう時、少しとらえどころがない。


 本の国で生まれ育ったからだろうか。マーガレットは時折、人を字でも読むかのように見ている時がある。特に、ディロックを見る視線は、そうなっている事が多い。読み解こうとしているのか。あるいは、読み切ろうとしているのだろうか。


「……なあ、マーガレット」

「なにかね」

「君は、最果てまでついてくる気なのか?」


 マーガレットは、ふむ、と小さく呟いた。視線がぐるりと巡り、そしてディロックと同じ法を向く。白く染まった山頂。いまだ雪に閉ざされた白の監獄。だが、ぽつりと吐かれた息は白く、温かい。


「君が言ったんだろう。命は全て旅人だと」


 そうだったな、とディロックが返す。確かにそう言ったと。彼女は呆れたようにため息をつきながら、それでもどこか嬉しそうに答えた。


「ならば私もそうだ。私の旅はどこへ行きつく?」

「それは……君にしか、分からないだろう」

「私にも分からないさ。だがね、君と同様に、行きたい場所を決める事は出来るのだよ。たとえば、誰かが自分を許す所まで、とかね」

「……」

「君が来るなと言わない限りは、ついていくさ。そうするべきなんだと、思っているのだよ」


 今度は彼が押し黙る番だった。


 気恥しい思いもある。だが、それ以上に、なんと答えるべきか分からなかった。情が深い、本当にそうなのだろうか。


 何もかも切り捨てようとして、切り捨てられなかっただけではないか。喪失から、悔恨から、絶望から。逃げようとして、一歩も踏み出せないまま、ふらふらと歩いているだけなのではないか。地獄までの道程を。


 だからこそ。ずっとずっと、背に付きまってきた思いに、彼は向き合った。


「……君は、国へ帰るべきなんじゃ、ないかな」


 絞り出すようにしてこぼれた言葉。かすかに眉が上がる気配がして、ほう、とマーガレットの楽しそうな声がした。


「おや、反論とは珍しい」

「ずっと、思ってたよ。君は……俺の隣で歩いているべきじゃない。俺は、薄情な人間だから」


 旅人として、苦しい場面に何度も出会ってきた。避けるべき事態にも直面してきた。マーガレットと出会う以前は、助けるべき人間を助けずに来た事もあった。だがその度に苦しんできた。


 結局ディロックという男は、どこまでいってもお人よしだった。あの頃――ずっと昔、何も知らない子供でしかなかった頃から、ずっとそうだったのだ。それを無視しようとしてきた。つとめて冷静な旅人であろうとしてきた。


 そうでなければ生きていけない世界だと思っていたし、そのように教わってきたのだ。だから、彼は兜をかぶった。剣を振るう自分が、旅人である自分と重ならないように。


 だが、兜は砕けてしまった。冷酷な剣士としての心は、すぅとディロックの中に入って来て。そして、何も変わらなかった。その時、彼は知ったのだ。


「俺はどこまで言っても臆病ものだ。人としての多くを失うことが、"失う恐れ"を失う事が怖かった。ただ旅をする肉塊になってしまう事が怖かった。今でも怖い。これからもずっと怖いんだろうと思う。だから、俺はお人よしなんかじゃなくて」

「ディロック」


 続こうとした暗い台詞を、叡智の言葉がバッサリと切り捨てた。それは、星の光に少し似ていた。


「人はそれを、情が深いというのだよ」

「……」

「さ、自虐の暇があれば準備したまえ。この後の天候次第だが、じきに出る事になるだろうよ」

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