百五十三話 山頂
翌日、調査隊は洞窟を経って山頂へと足を向けた。オヴァト曰く、天気が良くない。ディロックには昨日と大差ない雪模様に見えるが、もっと大雪になると言うので、それに従った。つまり、出来るだけ短い道を選んだのだ。
当然ながら直線には動けないので、なだらかな斜面をどうにかこうにか登っていくことになる。山は険しく、杖を突き立てなければまともに歩けないが、氷の上に載ってしまえば足や杖が滑り、滑落する危険性もある。クレバスを踏み抜けばそのまま落下死だ。警戒しつつでは楽々とは進めない。
「もう少しで山頂だ。気を抜くな。傾斜が強くなる」
「そうは、言ってもだな。くそ、足が取られる……」
ひょいひょいと歩いていく調査隊の面々や、魔法で少し浮いているマーガレットが順調に進む中、ディロックはどうにも苦戦していた。
というのも、足が取られるからだ。力強く地を蹴る足も、雪に取られては、満足な力を発揮できない。上げるにも下ろすにも妙に力が必要になる。これが彼の体力を奪っていくのだ。いくら寒さをしのげた所で、肉体の疲労を誤魔化すことはできない。
「そんなに苦労する事かね? 普段は跳ぶように駆けるというのに」
「岩山ならひとっとびで行けるんだが……ふぅ。むしろ、どうやってそんなに軽々と歩いているんだ?」
ディロックはそう言ってオヴァトを見た。
老人は、片足が義足であるという事を思わせぬ、見事な脚運びで雪山を上る。一歩を踏み出す度、雪そのものが道を開けているかのように、彼の足は白い壁に阻まれない。一番山道に慣れているという事で、調査隊においても実質的なリーダーのように動いていた。
彼はちらり、とディロックの方を見て、呟く。
「力を入れ過ぎだ」
「入れ、過ぎ?」
「もっと力を抜け。一歩一歩を渾身で踏み抜くな」
ぼそりと呟かれた言葉に、ディロックは首を傾げた。想像もつかなかった。
これまでの旅、これまでの戦いの中で、渾身を尽くさなかったことなどなかった。どの敵も強大で、どの困難も恐ろしく、気を抜く暇もなかったから、彼も最大出力で迎え撃たねばならなかったのだ。一歩一歩の力強さは彼の長所でもあった。
しかし――。さっさと歩き始めてしまったオヴァトの方をちらりと見る。木製の足は、ディロックの浅黒い肌よりも滑らかに動き、雪に最低限沈み、次の一歩を踏み出す基点としてしっかり機能している。確かに、力がこもっている様子はない。
そして雪を抜け出す足は直上、水から足を抜く時のように自然体で、そこにいささかの過負荷もない。
「力を、入れ過ぎ……」
反芻するように舌を揺らす。足元を見る。踏み込んだ足は、必要以上に白い床へと沈みこんでいて、持ち上げようとすれば、ずっしりとした重みを彼のつま先へ伝える。
「一歩一歩を……」
意識して、踏み出す。バランスを崩しそうになって、どうにか踏みとどまった。力を抜き過ぎたのだ。紙の大地を歩くような踏み方ではだめだった。
もう一度オヴァトの方を見る。老いた背中。縮んだ体。その姿に力強さはなく、だが踏み出す足が揺らがない。ディロックは足の動きを凝視して、思い至る。
――曲線だ。直線ではない。曲げるように、踊るように、繊細な先端の動きが必要なのだ。
オヴァトは片足が義足だ。だからこそわかる。踏み込みやすいように角度をつけ、踏み出しやすいように曲げる。足だけで多くの回転を描くように、ただ不足ないだけの力で体を推し進めているのだ。その姿は、はぐるま仕掛けに少し似ている。
ディロックもそれに倣って歩き出す。不慣れだが、先ほどよりはずいぶん力が抜けている。体力の消耗は少なくとも抑えられる。ふよふよと宙をういてゆくマーガレットに、恨みがまし気な視線を飛ばしながら、雪の中を進んでいった。
「これは……まいったな」
マーガレットが呟き、ぐいと帽子の位置を正した。
山頂の洞窟にたどり着いたのだ。そこには小さなうろがある。昔、この山に住むことを決めた集落の祖先が、なんらかの碑石を残したのだと言われているらしいが、その石は現在は紛失している。
当然、誰かが訪れる事を前提にして掘られ、整えられているから、その分だけ広い。三人ぐらいなら窮屈を感じずに立っていられるだろう。
――そして、その広さの分だけの穴が、調査隊の前に広がっていた。
赤黒い穴だ。だが物理的なものではない。そのふちは地面に接さず、ぼんやりとした炎のような揺らめきをもって、中を揺蕩い、またゆっくりと回っている。
「これが……混沌の門、か?」
「いいや。これは穴さ。多分、混沌の輩一体、そのぐらいしか入ってこられない穴だ」
「閉じられるか?」
「簡単に言ってくれる。だがやってみよう」
だが、と言って、マーガレットは中空へひらいた大口のごときそれを杖で突きまわした。どうも妙だぞ、と。
「混沌の穴が偶発的に開くことはあり得ない。そして、魔術的痕跡をかんがみるに、この穴は最近開いたものだろう。……"開けた"誰かがいる。それも、近場に、だろうな」




