百五十二話 旅人の悲嘆
山道は険しく、夜はなお冷え込む。調査隊は一時、崖に空いた洞穴で夜を明かすことになった。もとよりどこかで夜を明かす必要はあり、そのための準備もしてあった。
普段から休憩場所とされていたのだろう。洞穴の入り口には分かりやすい目印があり、奥行きは広く、また床は平らで眠るのに適している。薪は持ち込んだものと、洞窟の奥にいくらか置かれているものがあったので、十分な暖を取る事ができた。
「……そうか、ゆりかご諸島からずっとか」
「ああ。あんたは?」
「北西の端っこの、田舎村からだ」
ぱちぱちと薪が割れ爆ぜる音の中、二人の人影が語らっている。オヴァトとディロックだった。
「なぜ旅に出た?」
「なぜ、か。随分昔のことだから、忘れたよ。だがちっぽけな理由だった」
「そうか」
気が合う、というのは少し違う。なにせ、生まれた場所も、育った環境も、生きてきた道もまるで違う二人だ。年齢も随分かけ離れている。しかし、二人はかすかな共通点につながりを見出していた。
近しいものが死んだ。自分の、力不足で。たったそれだけのつながりだ。細い糸のような薄い縁。もしもディロックが、山を迂回していたのであれば、繋がるはずもなかった共通点の糸。それが、二人の寡黙な口を、ゆっくりと開かせていた。
「お前は、どうだ」
「……逃げたかったんだ」
ディロックは言う。目は閉じていたが、その言葉に苦し気な響きはもうなかった。
「婚約者がいたんだ。だが死んだ。……何かに付けて思い出すたび、もういないとわかって、胸が痛かった。何もできなかった自分に腹が立った」
「そうか……俺とは逆だな」
オヴァトは苦しそうに身を丸めた。眠りにつく熊のようでもあり、寒さに凍えるようでもあった。
「俺はどこにも行けん。ここに縛られた」
「……なぜ、山に残った?」
今度は、ディロックが聞く番だった。
彼が"なぜ"というのは、何も単純な話ではない。片足が義足とて、オヴァトほどの雪渡の技があるなら、どれだけの道であろうと踏破して山を下る事ができるはずだ。
もし、オヴァトがそうした技術を持ち合わせていなかったとしても、誰かの助けを借りれば降りられただろう。わざわざ、こんな何もない雪山で余生を過ごす必要はない。
だから、ここにはそれ以外の理由があるはずなのだ。この白く高い岩の中で、老人が生きていかねばならないほどの理由が。
「……仇なんぞ取ろうと思ったことはない。あいつは死んだ。死んだんだ。血しか残ってなかった。顔ももう思いだせん」
目を伏せて、かなしみに暮れる老人に、ディロックは無言のままそれを受け入れ、待った。
心の痛みは誰しもにある。それらは時間の経過で治ったように見えて、その実ずっと開いたままだ。どれだけの日が経ち改善したように見えても、それはただ、痛みに慣れ、知らないふりが出来るようになるだけだ。
ディロックも知っている。開いてしまった心の穴が、決してふさがらない事を。だからこそ待った。傷をほじくるようなやり方であると、分かってはいても、吐き出すべき思いというものはあるのだ。懐かしささえも膿になってしまうのなら、なおさらに。
「あいつを……一人には、していけないと。そう思ったんだ。そうだった気がする。……もう何もかも、忘れてしまいそうだ」
「どんな人だった?」
「どんな。どんなか。そうさな……」
長いひげをもっしゃと掴んで、オヴァトは過去を見るような遠い目をした。
蓄えたひげは、長い年月の証だ。皺と一緒に増え続けたそれは、もう真っ白になってしまったが、雪山に囚われ続けた彼に起こった数少ない変化であったろう。彼はそれをいじりながら、遠く遠く、彼方を見ながらつぶやく。少し、優し気な目だった。
「厳しいやつだったよ。だが……しょうがない奴といつも笑って、一緒に旅をしてくれた。心根の清い女だった」
どれだけの悲しみが、彼の足をここに縫い止めたのだろうか。
ディロックにはわからない。悲しみは愛と同じぐらい多くの形を持っていて、つまり人間と同じ数だけある。ディロックの悲しみは逃避の念になって足を動かしたが、オヴァトの悲しみは慰留の念となって雪山を監獄にしたように。
そんなことを考えた時、彼はふと思い至った。
――マーガレットが死んだら、自分はどうなるのだろう。
半ば押しかけるようについてきた、本の国の魔法使い。白い肌に真っ黒なローブ、とんがり帽子が揺れる姿が、脳裏をよぎって消えていく。彼女がもし旅の中で死んだら。
背筋を冷たいものが走って、彼は思わず振り向いた。視線の先、洞窟の奥の方では、壁にもたれかかりながら、マーガレットが眠っている。
死。誰にでも身近にあるはずのそれ。彼の旅の中で、何度も突き当たった危険の中に、いくらでも可能性はあった。どちらかが死に、旅が終わる末路が。
もしも自分だけが取り残されたら、自分もオヴァトのように、どこにも行けなくなってしまうのか。あるいは、ディロックを失ったマーガレットも、そうなるのか。
ディロックはようやく気付いた。マーガレットを"旅の連れ"として思う自分の心に。どこかに置き忘れた、失いたくないという恐れに。そして、マーガレットの存在が、ディロックの心に深く居座りはじめていた事に。




