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青空旅行記  作者: 秋月
五章 白き山マーダヴァ
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百五十二話 旅人の悲嘆

 山道は険しく、夜はなお冷え込む。調査隊は一時、崖に空いた洞穴で夜を明かすことになった。もとよりどこかで夜を明かす必要はあり、そのための準備もしてあった。


 普段から休憩場所とされていたのだろう。洞穴の入り口には分かりやすい目印があり、奥行きは広く、また床は平らで眠るのに適している。薪は持ち込んだものと、洞窟の奥にいくらか置かれているものがあったので、十分な暖を取る事ができた。


「……そうか、ゆりかご諸島からずっとか」

「ああ。あんたは?」

「北西の端っこの、田舎村からだ」


 ぱちぱちと薪が割れ爆ぜる音の中、二人の人影が語らっている。オヴァトとディロックだった。


「なぜ旅に出た?」

「なぜ、か。随分昔のことだから、忘れたよ。だがちっぽけな理由だった」

「そうか」


 気が合う、というのは少し違う。なにせ、生まれた場所も、育った環境も、生きてきた道もまるで違う二人だ。年齢も随分かけ離れている。しかし、二人はかすかな共通点につながりを見出していた。


 近しいものが死んだ。自分の、力不足で。たったそれだけのつながりだ。細い糸のような薄い縁。もしもディロックが、山を迂回していたのであれば、繋がるはずもなかった共通点の糸。それが、二人の寡黙な口を、ゆっくりと開かせていた。


「お前は、どうだ」

「……逃げたかったんだ」


 ディロックは言う。目は閉じていたが、その言葉に苦し気な響きはもうなかった。


「婚約者がいたんだ。だが死んだ。……何かに付けて思い出すたび、もういないとわかって、胸が痛かった。何もできなかった自分に腹が立った」

「そうか……俺とは逆だな」


 オヴァトは苦しそうに身を丸めた。眠りにつく熊のようでもあり、寒さに凍えるようでもあった。


「俺はどこにも行けん。ここに縛られた」

「……なぜ、山に残った?」


 今度は、ディロックが聞く番だった。


 彼が"なぜ"というのは、何も単純な話ではない。片足が義足とて、オヴァトほどの雪渡の技があるなら、どれだけの道であろうと踏破して山を下る事ができるはずだ。


 もし、オヴァトがそうした技術を持ち合わせていなかったとしても、誰かの助けを借りれば降りられただろう。わざわざ、こんな何もない雪山で余生を過ごす必要はない。


 だから、ここにはそれ以外の理由があるはずなのだ。この白く高い岩の中で、老人が生きていかねばならないほどの理由が。


「……仇なんぞ取ろうと思ったことはない。あいつは死んだ。死んだんだ。血しか残ってなかった。顔ももう思いだせん」


 目を伏せて、かなしみに暮れる老人に、ディロックは無言のままそれを受け入れ、待った。


 心の痛みは誰しもにある。それらは時間の経過で治ったように見えて、その実ずっと開いたままだ。どれだけの日が経ち改善したように見えても、それはただ、痛みに慣れ、知らないふりが出来るようになるだけだ。


 ディロックも知っている。開いてしまった心の穴が、決してふさがらない事を。だからこそ待った。傷をほじくるようなやり方であると、分かってはいても、吐き出すべき思いというものはあるのだ。懐かしささえも膿になってしまうのなら、なおさらに。


「あいつを……一人には、していけないと。そう思ったんだ。そうだった気がする。……もう何もかも、忘れてしまいそうだ」

「どんな人だった?」

「どんな。どんなか。そうさな……」


 長いひげをもっしゃと掴んで、オヴァトは過去を見るような遠い目をした。


 蓄えたひげは、長い年月の証だ。皺と一緒に増え続けたそれは、もう真っ白になってしまったが、雪山に囚われ続けた彼に起こった数少ない変化であったろう。彼はそれをいじりながら、遠く遠く、彼方を見ながらつぶやく。少し、優し気な目だった。


「厳しいやつだったよ。だが……しょうがない奴といつも笑って、一緒に旅をしてくれた。心根の清い女だった」


 どれだけの悲しみが、彼の足をここに縫い止めたのだろうか。


 ディロックにはわからない。悲しみは愛と同じぐらい多くの形を持っていて、つまり人間と同じ数だけある。ディロックの悲しみは逃避の念になって足を動かしたが、オヴァトの悲しみは慰留の念となって雪山を監獄にしたように。


 そんなことを考えた時、彼はふと思い至った。


 ――マーガレットが死んだら、自分はどうなるのだろう。


 半ば押しかけるようについてきた、本の国の魔法使い。白い肌に真っ黒なローブ、とんがり帽子が揺れる姿が、脳裏をよぎって消えていく。彼女がもし旅の中で死んだら。


 背筋を冷たいものが走って、彼は思わず振り向いた。視線の先、洞窟の奥の方では、壁にもたれかかりながら、マーガレットが眠っている。


 死。誰にでも身近にあるはずのそれ。彼の旅の中で、何度も突き当たった危険の中に、いくらでも可能性はあった。どちらかが死に、旅が終わる末路が。


 もしも自分だけが取り残されたら、自分もオヴァトのように、どこにも行けなくなってしまうのか。あるいは、ディロックを失ったマーガレットも、そうなるのか。


 ディロックはようやく気付いた。マーガレットを"旅の連れ"として思う自分の心に。どこかに置き忘れた、失いたくないという恐れに。そして、マーガレットの存在が、ディロックの心に深く居座りはじめていた事に。

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