百四十六話 狼
ガタガタと窓を揺らす風の音に、ディロックはふと目覚めた。背を壁に付けて、座ったまま寝ていたのだ。
外はまだ雪が降りしきっており暗かったが、目覚めたということは朝なのだろう、と彼は思った。彼の体内時計はほとんど狂った試しがなかったからだ。
体は寒さで少し硬いが、尽きずに燃えていた暖炉の炎と、三重に重ねた毛布が功を奏したのか、気だるさや熱はなかった。とはいえ、ギシギシと凍りついた関節は、動くのを億劫にしている。
そのうち、同じように横で眠っていたマーガレットが目覚めた。彼女は猫のように体を伸ばしたあと、胡乱げな目で彼を見た。そして次の瞬間、彼の体に巻かれていた毛布を強奪した。
呆気にとられている間に、毛布は全て彼女の体へと取り込まれた。四重である。もはやミノムシのようだった。
「……寝坊助め……」
「いや、その恰好で言う事か、マーガレット……」
外を見ると、吹雪は幾分和らいだようだったが、いまだ外は白い。カコン、カコン、とどこかからくぐもった音が聞こえてくる。そういえば老人の姿がない。
音の方をたどればどうやら別室があるようだ。昨晩は這う這うの体で小屋にたどり着いたので、あたりを観察する余裕もなかったが、どうやら一室だけではないらしい。
毛布も剥ぎ取られた以上、じっとしているのは苦しい。荷物をおいて、ディロックは隣室へと進んだ。部屋を移ると、どこか懐かしいような匂いが彼を出迎える。どことなく、故郷を思い出す、湿った自然の匂い。老人は薪を割っていたのだ。
「……どうした。飯はまだだぞ」
「いや……手伝おう。力仕事は任せてくれ」
そう言って斧を借り受けると、ディロックは慣れた手付きで斧を振るった。
先端の重さを活かし、切るというよりはめり込ませるように。切れ目さえできれば、そこを押し広げるように力を加えれば、それだけで薪は割れた。作業は随分久々だったが、ディロックの体は、動きを確かに覚えていた。
「薪が足りないのか」
「お前たちのせいではない。近くの住人が降雪の予想を誤ってな。それで薪の備蓄をいくらか分けた」
老人はそこらに座り込み、革袋から何かを飲んだ。ぷんと臭ってきた匂いから察するに、おそらく薬酒のたぐいだろうか。
雪国や山でなくとも、こうして酒を飲んで体を温めるのは一般的だ。薪を割るこの部屋は、暖炉の熱がないので寒く、よく見れば、老人の指先は震えていた。おそらく、メインの部屋をより効率良く温める為に、こちらへの熱を徹底的に遮断しているのだ。外の冷気も入ってこないが、熱も伝わってこないのである。
「……手慣れているな」
老人がポツリとつぶやいた。
「重心がブレん。力任せでもない」
「旅から旅の身だからな。薪を割れば金が貰えるのはどこでも同じだ」
慣れた。そう言って、また一つ薪を割る。力仕事というのはどこでも需要があるもので、日雇いの仕事でも、ほとんどはそうした、運搬なり薪割りなりといった力仕事なのだ。旅するうち、自然と日常になっていた。
パコン、パコン、小気味よい音がしばらく響くが、老人の顔は渋いままだった。薬酒の苦さゆえ、というわけではない。
寂しげな、というべきか。はたまた、懐かしいような目でもある。酒のおかげか、息はずいぶん楽そうになりつつあったが、代わりに顔は苦しそうに歪み始めていた。
「旅か。懐かしい言葉だな」
「……あんたも、旅人だったのか?」
「ああ。だが、何十年も前だ。もうどこにも行けんよ」
パン、と足をたたく音。目をそちらにやると、老人の足が見える。木の杖で代替された足を。
「動物か?」
「狼だ。賢いやつでな。何十年も前、狼狩りに出た時、指揮をしているのが俺だと一瞬で見抜きよった」
足を食われた仲間を捨ておける人間はそう多くない。ましてそれが指揮者であるとなれば、戦いの最中であればあるほど、見過ごすことはできないだろう。だが、相手はそれを分かっていて食らう獣である。それに足を止め、指揮官の救出に動いたものがどうなったかなど――語るまでもない。
沈黙。それだけが、老人の意思を、なによりも雄弁に示している。
もう旅に出る気はないのだと。もう仲間を作る気はないのだと。
「皆死んだ。俺もここで死ぬまで生きて死に、雪の中で朽ちよう」
「……そうか」
ディロックはなんとも言えない心地になった。仲間を失った老人に、愛を失った自分を重ねていた。だが、それはきっと、似て非なる思いだ。ディロックは逃げ、老人は胡坐をかいて向き合っている。どちらか良かったのかは分からない。
そんな折、ディロックははたと斧を振るう手を止めた。
老人が首を傾げる。だが、彼はそれでも耳を澄まし続けた。そのうち、僅かに音が聞こえた。
――ォーン。
遠吠えだ。かなり距離はあるだろうが、それでも複数回、別々の場所から聞こえた。間違いなく、同じ山の範囲に、かなりの群れの狼がいる。
断続的に響く。一度、二度、三度――そのたびに、窓がビリビリと震えた。ただの狼ではないと、直感させる咆哮であった。
「なあ、爺さん」
「……なんだ」
――まだ生きてるのか。あんたの仇は。
老爺は黙り込み、またぐいと薬酒をあおった。苦渋に満ちた表情は、狼の遠吠えが聞こえなくなっていっても、まだしばらく、そのままだった。




