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青空旅行記  作者: 秋月
四章 見捨てられた国ウルツ
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百四十一話 邪竜の油断

『こしゃ……くなぁ!』


 龍の剛腕が再び振り下ろされる。地面へと無数に散乱した瓦礫が跳ねとんで人の肌をたやすく切り裂き、打ちのめしていく。


「ぐがッ……! ――まだまだぁっ!」


 そんな地獄のような状況の中を、ロイエルはひたすらに走っていた。致命的な傷こそうけてはいなかったが、体のあちこちは擦り傷や打撲傷まみれで、およそ血塗れと言ってもいい姿である。


 頭の出血が右目を塞いでしまい、片方の視界もきかない。体の動きをことごとく制限してくるような鈍い痛みの中で、それでも足を前に踏み出す。


 苦しみの中で生きてきた。多くを学ぶべき時期に命のやり取りをして来た。目を焼くような過去の栄光に背を向けて、不幸と絶望の今を生きてきたのだ。こんな傷ごときがなんだ、そう自分に言い聞かせるように彼はがむしゃらに動いた。


 彼はディロックほど強くない。ドラゴンの注意を一身に引き受け切る事は出来ず、バリスタ隊も投石機体にもかなりの被害が出ていた。


 踏みしめた砂に血が混じっている。ロイエル自身の血もあるだろう。そして、この戦いの中で死んだ、からくり職人たちの血も。その事実がどうしようもなく悔しくて、彼はもう残り少なくなった薬剤をつかみ取り、電光石火の早業でもってなげうった。


 カシャン! 軽い音とともに薬剤瓶が砕け散って、竜の体に液体を撒きちらす。


『かようなもの効かぬわ!』

「でしょうね! でもこれで、準備は整いました!」

『……なんだと?』


 竜の動きが一瞬、止まる。わずかな隙。それを見逃すことなく、小指で保持していた瓶を、手首のスナップで手のひらの中へと移した。


 ラベルには分かりやすい、ドクロのマーク。わずかに粒のまじった緑色の液体は、彼の手の中で冷ややかに揺れている。


「総員退避してください!」


 言うが早いか、彼は渾身の力を持って小さな瓶を鋭く投げた。


 試験管の細長い形状ゆえに、軌道はあまりにも不規則。だが、長い間培ってきたバトルスタイルと詰んだ経験が、弧を描くような軌道での投擲を可能としていた。


 そして、着弾と同時。それは反応を起こした。


『な、にぃ……!?』


 パン! パン! 爆ぜるような音とともに()()()()()それは、山のような巨躯を誇るはずの竜の下半身を覆い尽くした。


 色とりどりのそれ。赤、青、緑、薄紅、黄色――いっそ場違いなほどにカラフルなそれらが、竜の表皮を覆い、埋めていく。


 痛みはない。当然だ、竜の体は剣をも弾く鱗で覆われているのだから。


 苦しくもない。当然だ、竜の体は並大抵の毒など受け付けることはないのだから。


 だが、動けない。雄大なる翼も、勇猛なる尾も、それどころか爪の先さえも動かせない。それは竜にとって酷い屈辱であり、また驚愕であった。


『なんだ、この――()は!? いったいどこから……!』

「さっきから散々投げつけてましたよ。気づきもしませんでしたね」


 傷だらけで、にやりと笑う。弾種三番として投石機によって放たれた樽は、竜の体に幾たびもぶつかっては砕け、その中身を飛び散らせた。それ単体では毒でもなんでもないそれは、竜の体をただ濡らすだけであり、それゆえ気にさえされていなかった。


 しかし、それもある種当然と言える。竜が生まれた時代は魔法の全盛期、生活の多くは魔法、ないし絡繰りによって成り立っており、こうした小細工に頼らずとも、人は超常、ないし超常に近しい現象を息をするように行えたのだ。


 だからこそ竜は見逃した。ただの人間、ただの細腕。ただ一人の青年の、あるいはかつての栄光を取り戻そうとしたものたちの、決死の足掻きを。それは見事に花開いた。


 鋼よりもなお硬い泡、それを作り出す二種の薬剤。それは普段、少量ずつ反応させることで、特に強固な(にかわ)として使用される。


 これで接合した門は破城槌ですら破れなかったとうたわれるほどだ。それが事実かは定かではないが、少なくとも竜の動きさえも鈍らせて見せる代物である。


 ――でも、これで……ほとんど手は尽きた。


 ロイエルは冷や汗を垂らしながら次なる手を考える。今は拘束できているとはいえ、これだけ巨躯の竜相手では、しこたま薬剤を投入して作った"創城クリエイトフォートレス"の錬成薬さえもそう長く耐えられるとは思えない。


 だが、彼ではこれ以上火力を出す事はできない。できて、精々こけおどしだ。投石機やバリスタも直撃こそしているが、致命打とはなりえない。ここにきて、正面切って戦える人員の欠如と、からくり職人たちの突貫工事が響いてきていた。


 時間がなかった以上、結果論でしかないが。もしまともに戦える人員――たとえば、国家規模の遠征隊であるとか、あるいは高位の冒険者であるとか。そういった人員がいれば、この瞬間に総攻撃を叩き込めただろう。


 あるいは、からくり職人たちの準備がもう少し行えていたならば。火薬を用いたり、あるいはもっと大がかりな即席兵器を作り出し、致命打を与える事も可能だっただろう。


 だが、どちらも足りなかった。足止めが精いっぱいだ。


 ――けれどその足止めは、結果として功を奏した。


「任せろ」

「ディロックさん!」


 風の刃が虚空を駆ける。

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