百四十話 邪竜の驚愕
『こしゃくな!』
「ぐ、ぐぐ……ッ!」
空気を焼き尽くすような轟音と熱。魔力を籠め続けるマーガレットの顔から、ゆっくりと汗が滴り落ちる。
『防火』もれっきとした防御魔法の一つである。他の魔法と比べて限定的な分、火と熱に対してはたぐいまれな防御力を誇るのだから。しかし防御魔法の常として、防ぐべき攻撃が強いほど、防ぐのに必要な魔力は膨れ上がっていく。
竜の炎を前にして、彼女の貼った防壁はいくたびもひび割れ、そのたびに修復された。その分だけ、マーガレットにかかる負担が増えていく。元々病的に白かった彼女の肌は、すでに蒼白へと変じつつあった。
魔力量の急激な変化に、体が対応しきれていないのだ。今にも倒れそうな体を、必死に踏ん張って立たせ、黒壇の杖を掲げた。
ぐにゃり。火と熱を遮っていた壁が歪む。それはあたかも、熱に耐えかねて溶け落ちたかのようにさえ見えた。
「なめるな、火吹きトカゲ……!」
苦し気な声を揚げながら、それでも黒壇の杖を離そうとはしない。熱を受け止める力が足りず、マーガレットの魂の底から、魔力がぐいと吸い上げられていく。人外の域にある彼女の魔力でさえ、竜の息吹を前にして尽きかけていた。
だが――。
「重ね、唱える。我が手の先に三千世界」
歌う。詠う。それは、遥かな力を込めた響きであり、空気を震わす言の葉。
二重詠唱。きわめて困難な魔力制御と、あまりにも非効率的な術式によって発生する膨大な魔力消費。現実的に出せる魔法は、精々初歩の魔法二つというメリットの薄さ。
それゆえ、かつての魔法全盛期にさえ、ほとんど使われなかったその魔法術を、今彼女はくみ上げていた。蒼い顔で言葉を紡ぎ、今にも崩れ落ちそうな震える足で地面に抗い、片手を突き出す。
――あいつは生きている。きっと生きている。だから、私がこの一瞬を繋がねばならない。あいつが、致命の一撃を叩き込むだけのわずかな間。
そう思うと、ふと笑いがこぼれた。どうしようもなく困難に挑んでいるのに。一度も踏み込んだことのない領域にいるのに。どうしてか何もかもが気楽に思えた。ああ、私もお人よしになってしまったのだなと、彼女はそう思った。
そして紡ぐ。真に力ある言の葉を。
「『幽閉』……ッ!」
壁が歪む。とうとう恐るべき力の奔流を受け止め、球体のようになって封じ込められた炎を、力ある言葉の渦が撫でていった。するとその瞬間、空中に現れた黒い割れ目に、荒ぶる暴威は吸い込まれ。
そして何事もなかったかのように消えた。
『なに!?』
「は……ざまあみろ、だ」
杖にすがるようにして立つ彼女は、それでも笑って見せた。すかさず、神代を彷彿とさせる光景に呆然としていたロイエルが正気を取り戻し、言い放つ。
「ば、バリスタ隊、攻撃再開! 投石機部隊も攻撃を! 弾種三番でお願いします!」
「分かった、三番じゃな!?」
「ええい、なんでバリスタの弦を巻き上げておかなかったんじゃ! さっさと撃て撃て!」
「馬鹿、我々は素人なんだぞ無茶言うな! ……装填完了!
「撃てば当たる、タイミングなんぞ気にするな! 放て!」
飛ぶ。攻撃が跳んで行く。一瞬呆気に取られていた邪竜が気づいたときにはすでに遅く、無数の大矢や投石――いや、投樽の直撃を避けることはできなかった。
竜の雄たけび。だが、それは威圧や威嚇ではなく、苦しみに耐えるためのものだ。血が流れる。体力がわずかでも失われる。痛痒になっているという事自体が一番の成果だ。
だが前衛がいない。竜はすぐに体勢を立て直すだろう。そうなれば後衛しかいないこちらには防御手段がもうない上に、マーガレットも無理な魔法行使によって気絶寸前の状態だ。
ロイエルは一瞬、己を確かめるように手の平を見つめた。
「僕が前に入ります! 攻撃続けてください」
「なに!?」
「正気か!?」
親戚、友人、近しい関係のからくり職人たちが悲鳴のような叫びをあげる中、ロイエルは迷わず飛び出した。
策はあった。それが通用すれば、ディロックの代用ぐらいにはなるはずだ。どちらにしても、誰かが前に立たねばならない。そうでなければ全員共倒れになるだけだ。
前に立つなら、頑丈さよりも俊敏性と戦闘経験がものをいう。竜の攻撃に加え、後方からの攻撃もかわし続けなければならないからだ。ドワーフの血筋なだけあってずんぐりむっくりで動きの遅いからくり職人たちと比べれば、ロイエルの速さは頭一つ抜けている。戦闘経験も桁違いだ。
それに、と彼は思った。
――自分だけ後ろに引きこもっている事などできないと。
――通りすがりの旅人でさえ、命を張って戦っている。自分も、たとえ時間稼ぎにさえならないとしても、命を賭けなければならないと。
「おい、ドラゴン!」
ロイエルが叫ぶ。半分上ずった、情けない声。だが、紛れもなく、竜の前に立つだけの資格ある、戦士の声である。竜はそれに、苦悶と怒りの唸り声で返答した。
「僕が相手だ、かかってこい!」
『良いだろう――死ね!』




