百三十九話 邪竜の炎
一歩、二歩、三歩――竜の足元を駆け抜けながら、ディロックは剣を振るった。
絶えず投石は行われており、バリスタ隊も射撃を再開した。竜相手では決定打にならないが、もしその破片にでも当たれば、ディロックはたちまち行動不能になるだろう。
だがその場を離れれば、攻城兵器と、それを操るからくり職人たちを竜が襲うことは明確だ。
どれだけの死線だとしてもくぐり抜ける他なかった。しかし、いかに獣のような直感をもってしても、高速で飛び散る投石や矢破片、異常なまでの俊敏性を見せる竜の爪牙を避け続けるのは並大抵の労力ではなしえない。
現にディロックの体には、すでに幾筋もの傷が生まれつつあった。深手とは言えずとも、しかし確かな傷と痛みだ。
対する竜はほとんど無傷と言ってもいい。体躯の大きさのあまり、彼がいくたび刃を振るったところで、大した怪我を与えられないのだ。
「ディロック、もっと気張りたまえ!」
「馬鹿言うな! これで精一杯、うおおっ!?」
自らの横をすり抜けて飛んできた魔法の稲妻に、ディロックは思わず声を上げた。よく練り上げられ、狙いすまされたとはいえ、電気が横を通り過ぎていくのはとてもではないが平気ではいられない。
たが文句を言うような隙もなく、竜の爪の動きに反応してディロックが軽やかに跳び上がった。砂岩の街をバターかなにかのように切り裂きながら、竜の腕が振るわれ、彼の下を通り抜けていく。
『甘いわ、虫けらめ!』
「し、まっ――!?」
竜が、立つ。後ろ脚に該当するはずの二本の足、それの筋肉が膨張し、力強く大地を踏みしめて。あれほどの体躯で、二本足で立つ無謀。竜の足とて耐えきれないはずのそれを、黒の巨竜は確かに耐えて見せた。
という事は自然――もう片方の前足が宙に浮き、自由に振り回されるという事だ。
一度空中に跳び出てしまった彼にはもはや避けようがない。とっさに身をよじるが、剣や槍とは比べ物にならない、面制圧の攻撃。それはもはや、壁が殺意をもって飛んできたようなものである。空を舞えぬ人の身では、到底躱す事など不可能であった。
振りぬかれた黒い暴威が、ディロックの体を塵芥のように弾き飛ばしていく。暗闇のどこかで衝突、それと崩落音。彼の体は勢いのまま、どこかの建物に突っ込んだらしかった。
「ちょっ、ディロックさ――!?」
「構うな! あれは見てくれとは比べ物にならんほど頑丈だ、あの程度で死なん!」
半ば、そうであってくれと祈るような叫び。それに反応したように、竜の目が闇に消えて行ったディロックから、マーガレットの方へと移る。
『次はお前だな、雷の女ァ……』
「ええい、ねちっこいな。ここまで再現せんでもよかったろうに、神代の魔法使いたちよ……」
封印されていた期間を除けば、おそらくこの竜は生まれたてだ。だというのにこの威圧感、執着、そして傲慢さ。明らかにデザインされて作られたものだろう。
どうしてだろうか。どうして、自らが扱う竜を、ここまで傲慢にしたのだろうか。マーガレットの脳裏に飛来した言葉は、しかし竜の口からあふれ出し始めた光の前に消えて行く。
ブレスが来る。猛威を携えた吐息が。
『消えよ!』
「消えないさ……! 人の力、とくと見たまえ!」
鋭い紫紺の目に魔力のうねりが宿り、輝く。それは人類の有史以来、長く長く継がれてきた稲妻だ。
竜を代表とする怪物。何処からか溢れる魔のものども。異界の門より現れし"混沌"。のっぴきならない世界の中で、それでも生存を諦めなかった人類の英知なのだ。たとえ神代の竜の息吹とて、たやすく消しうるものではない。
光が収束する。今にも放たれんとする炎を目の前にしながらも、マーガレットは負けん気の強い目でその光を直視した。握った黒壇の杖から溢れ、迸る稲妻を制御するように突き出しながら、自らの内の魔力を渦とし、周囲の目に見えぬ力さえ取り込んで。
風が吹く。吹くはずのない風。それは精霊の風ではなく、ただ人理によって引き起こされる空間のうねり。
「――『防火』」
熱く吐き出された言葉は、打ち砕かんとする破壊者の炎を、確かに止めた。
誰かの驚愕の声が聞こえるほどの静寂。
そして、一瞬の後、思い出したかのように発された轟音。ただそれだけが、恐るべき竜の息吹が放たれ、そして、それがごくごく初歩的な魔法に止められている事実を伝えていた。
防火。それは、『光明』などと並び、初歩的な魔法として知られる術だ。効果は至って単純、火を防ぎ、熱を遮断する。それ以上でもそれ以下でもない。
物理的な防御を展開する『障壁』や、魔法的に逸らしあるいは弾く『矢避け』などと比べれば、あまりにも限定的な能力であり、実際に使われる機会というのはほとんどない。
だが。
ほんの一握りの大魔法使いは知っている。その魔法は、いずれの防御的呪文にも負けず劣らずの防御性能を持っていることを。習得が簡単だからと言って、『防火』の魔法が、脆く崩れ去る壁などではないことを。
布のように薄い半透明の壁は、竜の口より放たれし熱の一閃を確かに受け止め、あまつさえ押しとどめる。竜の瞳が驚きに見開かれ、からくり職人たちは一瞬、攻撃を忘れるほど驚愕する。マーガレットは汗を幾筋も滴らせながら、それでも皮肉気に笑って見せた。




