百二十一話 乾杯
「……まだ口の中にアレが残ってる気がします……」
若干涙を残した目で、ロイエルが呟く。手には薄いエールの入ったジョッキが握られていて、口をゆすぐように、何度も何度も口に運ぶ。それを見て苦い顔をするのはマーガレットである。
彼女が何をしたのかと言えば、あの虫を爆発四散させたことである。およそ人間のレベルに収まるとは思えない魔力を、これでもかと込めて、あまつさえ圧縮した物を叩きつけたのだ。
耐えられなかった的は、当然の帰結として中身を飛散させる。おまけに、相手は虫、それもイモムシの類である。となると、それは皮に覆われた水風船のようなもので――安直にいえば、あのヘドロに飛び込んだ方がまだましと思える程度の臭さと粘りを全身に浴びる羽目になったのである。三人そろって。
「すまん、どれほどの硬さか測りかねてな。あれでも一応出力は抑えめにしたんだが」
「『天撃』が基準では大差ないだろうに……」
ディロックも眉間を抑えて言えば、傍若無人な気のある彼女もさすがに縮こまった。無論、そこには自分も被害を受けたということも含まれているのだろうが。
とはいえ、宣言通りの事はやっている。事実、三人の受けた不快被害を除けば、遺跡の損傷はほぼゼロである。ほぼ、というのは、あの光の大きさと同じ程の穴がしっかりと地面にあいていたからである。
三人はひとまず、遺跡から帰還した。十分な成果が得られていたし、何より少しでも早く帰って、この粘性を帯びた緑の血を一刻も早く洗い流したいと思っていたのだ。道行く市民からのぎょっとした視線は、不快さの前では気にもならなかった。
「……生臭かったな……」
「ああ。それに……妙に冷たかった」
「あの、やめましょう。思い出してしまいますから、ね? ……そうだ、成果の話をしましょうよ!」
彼が取り出したるは、つい先ほどまでしこたま魔法の品を詰めていた袋である。それはもとよりも膨らんではいなかったが、その代わりずっしりとした確かな重みがあった。
「あの後、早速契約していた店に行って査定してもらいました」
ロイエルが紐を引いて、袋の口を緩める。するとその袋の中には、ぎっしりと銀貨が詰まっていた。間間には、いくらかの金貨も見える。幸せな輝きだった。
「おお、これほどかね?」
「はい。といっても探査は中断してしまったので、遠征隊の戦果には及ばないでしょうけど」
彼が動くたび、じゃらじゃら、かちかちと音が鳴る。それだけでも腹が満たされるような気がした――もちろん錯覚だ。
「いや、十二分だ。これで当分、宿無しを危惧しなくてもよさそうだな」
「それは嫌味か? ……いや、まぁ、いいがね。私が悪いのはわかっているとも」
ロイエルの手によって手際良く分けられていく貨幣の山を見て、ディロックはようやく人心地ついた。あやうく宿無し無一文となるところだったのだ。無理もなかった。
そうして分けられた硬貨の山、その片方はひとまずディロックが預かった。マーガレットに預けると、二目と見ないうちにどこかへと消えていきそうだったが故である。彼女はどことなく悲しそうな目を彼に向けたが、彼がそれを無視すると、マーガレットはすねたように項垂れた。
「それで、ええと……」
「うむ、本格的に参加するか否かだな。ディロック。私は引き受けたいと思うが、君はどうかね?」
「俺もそれで良いと思う……が、契約期間についてはもう少し詰めたい。良いか」
契約が終了する条件、というものは大事だ。これはディロックの経験則だが、適当に決めると雇用者、労働者ともにろくな事にならないのである。長く働いて欲しくても、規定額に至ったから解散、などとなれば雇用者は不満であるし、その逆もしかりだ。
彼が言葉に、ロイエルは少し首を傾げながらも、しっかりと頷いた。その顔には隠し切れない笑みが浮かんでいる――おそらく、彼とて藁にもすがるような思いだったのだろう、とうかがえた。
なにせ、顔も知らない、明らかに外国から来た二人組に、このような話を持ち掛けたのだ。彼にも相応の事情があったはずである。それも、ほとんど違法のような手段で大金を手に入れなければならないような事情が。
ただ、それを詮索するようなことはしない。こぼれた笑みも、小さく目を逸らしてみなかったことにした。契約を反故にされてはことであるし、なにより、ディロック自身にも探って欲しくない過去がある。墓穴を掘るのは勘弁だった。
「……まぁ、なにはともあれ、だ」
マーガレットはそう言って、ジョッキになみなみと注がれた薄いエールを小さく掲げて見せる。ハッとして、二人もそれに倣った。仕事、とくに冒険が終わった後となれば、次に何をするかなど相場が決まっているのだ。
音図を取るのは、今回の雇用者でもあるロイエルだ。彼の方を見やれば、控えめにうなずいて口を開いた。
「えっと……良き出会いに」
「良き成果に」
「良き冒険に」
――乾杯。
酒場の喧噪と重なったそれとともに、三人はぐいと酒を飲み干して、笑った。




