百十三話 兄、弟
鈍い動きで、カルロの目が開いた。
生きているのか、という疑問がまず渦巻いた。少なくとも、見上げた天井は、何時かに眺めていた王宮のそれに見えた。
「起きたのかね? ……ああ、動かないように、傷が開く」
ぶっきらぼうな言葉。女の声。マーガレットだ、となんとなく思った。目はかすんで見えなかったが、そのくすんだ黒く波打った髪、あるいは澄んだ青紫が見えた気がした。
生きているのか。もう一度疑問がぶり返す。胸の中央がぎしぎしと痛む。目を向けると、わずかに血がにじんだ包帯がまいてあった。竜断の剣を受け止めて、生き残れたのか。謎は尚深まった。しかし、傍らでたたまれた一枚の布を見て、何となく察した。
血が足りないのかかたかたと震える手で、その布を手に取り、伸ばす。深緑の肩布は、手に持つ訳にも行かず身に着けていた、ディロックのものだ。大きな切れ込みが一本入っている。しなやかながらも強靭な竜の革が、必殺の突きを受け止めてくれたのだ。
乱暴にむしり取られたであろうチェストプレートには、受け止めきれなかった衝撃が鎧を大きくへこませていた。体ごと貫通しなかったのは奇跡と言えた。そうでなくば、多くの騎士を屠った混沌の力が、同様に彼の身体を蝕んでいただろう。
実際に、どのような力を行使したのかは分からない。しかし竜断の刃は、間違いなく闇よりも尚暗い闇に、混沌の黒に侵されていた。きっと騎士たちは、それにやられたのだろうから。
「生きて、いるのですね。私は」
「ああ。上等な霊薬が無ければ危ない所だったが」
そう言って、彼女は空の瓶を蹴飛ばす。二本だ。霊薬は怪我の程度にもよるが、一本あれば傷を塞ぐには十分だ。マーガレットは一切怪我をしていない。ということはと思って隣を見れば、ディロックも同じように倒れていた。呼吸は浅いが、しっかりと生きている。口元に血を吐いた後がくっきり残って居た。
「兄は……」
マーガレットが、細く白い顎をくいと振って示す。倒れ伏したジェームズの姿が見えた。
腹から血が出ている。かなりの量だ。突き刺した剣がそのままな所を見るに、貫通はしなかったのだろうが、内臓まで届く怪我だ。かすかに胸が上下している。だが、二人と違って霊薬もない。助からないだろう。
だが、その目は凪いだ水面に似ていた。狂気も、嫉妬も宿っていない、かつて見た兄の瞳そのものだ。ぐいと地面を手でおした。力が入らない。体の動かし方を忘れてしまったようだった。けれど、胸を突き動かす思いのままに、なんとか立ち上がった。
マーガレットの咎める視線を無視した。胸が傷と、それ以外の痛みで酷く苦しかった。
ふら、ふら。揺れながら、一歩一歩、前へ。そして、ジェームズの隣まできて、とうとう力が抜ける。血だまりに音を立てて膝をついたカルロを、ジェームズが見た。
「兄上……」
「カルロ。腕を、上げたんだな」
こひゅう、と肺から息が漏れていく。血のほとんどを失い、息をする力さえもう残って居ないのだ。何分ともたないだろう。
そんな半死人の手が、カルロの手へと伸びた。
「俺は弱かった。俺は、俺自身に勝つ事ができなかった……」
それは、と口が開きかけて、やめる。代々受け継がれる王の剣にこびり付いた、混沌の竜の残り香。切っ掛けはそれだ。抑えきれぬほどに嫉妬と羨望を増幅し、ジェームズを狂気に駆り立てたのは。
だが、そんな狂気が長く持つ筈はない。火種は火種にすぎないのだから。薪が必要なのだ。狂気をごうごうと燃やすための薪が。彼はそれを、長い事捨てずに持っていた。己の弱さを捨てられなかった。弟への思いを、才への憧れを、切り捨てる事が出来なかったのだ。
そんな事を責めるカルロではない。だが、何よりも自分が許せないのだろう。ジェームズは謝罪の言葉をこぼした。小さく、かすれた声で。何度でも、何度でも。止める事はできなかった。兄は、それだけの事をした。血のつながった妹を殺そうとした。弟も。そして国をゆがめた。多くの騎士も殺した。
「お前に嫉妬していた。お前に憧れていた」
ぽつりと、死にかけの兄の口から、本音が飛び出した。それは、ずっと隠して来た言葉だったのだろう。知らぬ者が一人としていなかったとしても。口に出してはいけない言葉だったのだ。
けれど、今なら言える。死の間際、なんのしがらみもない今だけは。
本当の心を、打ち明ける事が出来る。
「お前を、本当の弟のように……思っていた……」
ジェームズは、正妃から生まれた身だ。カルロの母ローラインは、確かにかつて正騎士でこそあったが、しかし元は平民である。あくまで側妃としての扱いだった。
ゆえに、カルロとジェームズは異母兄弟だ。王の血が流れてはいても、そこには隔たりがあった。
けれど。幼い身で語り合い、笑いあった過去を思えば、そんな隔絶などありはしない。互いに学び、競い、そして支え合った日々。間違いなく、ジェームズは兄で、カルロは弟だった。嫉妬と血と立場が、そんな簡単な事さえ言わせてはくれなかった。
ジェームズの手を、カルロが握る。命の終わりを前にした人間とは思えない、力強い手だ。託す手だった。
「すまない。この国を、頼む」
力がなくなる。指が垂れ、腕が垂れる。命の灯が、するりとカルロの手から逃げていった。眠るように閉じられた瞳が、もう開くことはない。
彼は、王の剣だったものを、迷いなく踏み砕いた。必死に生に縋りついた混沌の竜の断末魔が、王無き玉座の間に響いた。それで最後だった。




