水面のおばけ　ミズキ

　まよい森の奥。

　誰も近づかない静かな場所に、ひっそりと光る池がありました。

　そこに住むのは、水の精のようなおばけ、ミズキ。

　ミズキの体は、水そのものでできていました。

　透き通った青い流れが、風に揺れるたびにふるふると光を散らし、月の光を映すと、まるで池の中に星が落ちているかのように輝きます。

　彼女は、水面に映るものが好きでした。

　風に揺れる木々の影。

　鳥が羽ばたく瞬間。

　森に迷い込んだ小さな動物の姿。

　すべてが水面の上では少し違って見え、その一瞬を映すたびに、ミズキは静かに心を震わせていました。

　ある夜、満月が森を照らしていました。

　池の水面はまるで鏡のように輝き、ミズキはそこに映る自分を見つめていました。

「わたしは……どこまでが“わたし”なんだろう」

　彼女の声は、波紋となって静かに広がりました。

　触れれば崩れ、流れれば形を失う自分。

　森を映しながら、どこか孤独で、外の世界と直接交わることができない。

　それが、ミズキの小さな悲しみでした。

　そのとき。

　森の奥から、小さな足音が近づいてきました。

　葉を踏む音。震える声。

「……だれか、いるの？」

　ミズキは驚いて、水面を震わせました。

　波紋が広がり、体がゆらりと溶けて、姿が霞みます。

　けれど、その声はどこか悲しげでした。

　泣いているような、寂しさを抱えた声。

　やがて、木の影から小さな女の子が現れました。

　迷子になってしまったのでしょう。

　泣きながら池のほとりに座り込み、両手で顔を覆いました。

　ミズキはそっと水面を揺らしました。

　波紋がひとつ、ふたつと広がり、月の光を淡く映し返します。

　女の子はその光に気づき、涙を拭いて顔をあげました。

「……わあ、きれい……」

　彼女は手を伸ばしました。

　けれど、水に触れようとすると、波紋が広がり、ミズキの姿はふっと消えてしまいます。

　それでも女の子は微笑みました。

「ありがとう。もう、こわくない」

　立ち上がった女の子の背を、月光がやさしく照らしました。

　ミズキは、その背中を見送りながら、小さく心の奥でつぶやきました。

「……触れられなくても、届くことがあるのね」

　その瞬間、池の水面が柔らかく光り、ミズキの中に温かいものが広がっていきました。

　夜が深くなると、森はさらに静けさを増しました。

　ミズキは水面を通して、森の“音”を聞きます。

　葉がすれる音。

　枝が揺れる音。

　小動物の足音。

　それぞれの音が水面に映るたびに、ミズキはそっと涙を落としました。

　その涙は波紋となり、やがて池を越えて、森全体に広がっていきます。

　波紋はやさしい青い光となり、木々の間を抜け、小川に、泉に、そして遠くの丘へ。

　まよい森のあちこちで、眠れないおばけたちがその光を見上げました。

　ポタリのしずくも、ユラリの歌声も、その光に溶け合いながら静かに揺れます。

「ミズキの波紋が、森を包んでる……」

　ルナリが空からそっと見つめ、ホシオの星屑が光に重なりました。

　森のすべてが、その夜だけは、ひとつの心で呼吸しているようでした。

　ミズキは知っていました。

　自分の存在は小さく、誰かに触れることもできない。

　けれど、その波紋は、確かに誰かの心をやわらげている。

「それだけで、いいの」

　彼女の声が、風とともに水面を渡ります。

　月が傾き、夜が明けるころ、池の光は静かに淡くなっていきました。

　けれど、森のどこかで涙をこぼした者がいれば、そのしずくの奥には、必ずミズキの青い光がそっと揺れているのです。

　ミズキは今日も、森の奥で静かに息づいていました。

　水のように、透明で、やさしい心のままに。