影にひそむ小さな影 カゲル
まよい森の木々の影の中に、ひとつの小さな気配がありました。
それが、カゲルというおばけです。
カゲルは小さく、まっ黒で、輪郭もはっきりしません。
月の光の下ではぼやけ、朝の光の中では完全に消えてしまう。
けれど、夜の闇が深くなるほどに、彼の存在は森のあちこちに溶け込み、葉の裏や木の根、石のかげ、流れる水の底にまで、そっと染み渡っていきました。
昼のあいだ、カゲルは木々の根元や洞にひそみ、
風と土の音を聞きながら眠っています。
夜になると、星明かりを避けるように森をゆらりと歩き、
誰も知らない場所で、静かに“見守る役目”を果たしていました。
彼の仕事は、影で道を守ること。
森に迷い込んだ生きものたちが、危ない場所に近づかないように、足もとでそっと影を広げて知らせたり、
崩れた道の上に身を伸ばして、落ち葉の形を変えたり。
そんなふうに、誰にも気づかれないまま働くのです。
カゲルは、それが当たり前のことだと思っていました。
自分のような存在は、光の中では生きられない。
だから、誰かに見られたいなどと思うことは、いけないことだと。
……けれど。
心の奥のどこかでは、いつも、
ひとすじの淡い願いが揺れていました。
(ぼくも、誰かに見てほしい)
その想いは、小さな灯りのように胸の中で明滅し続けました。
けれど、声を出すことはできません。
もし姿を見せれば、きっと怖がられてしまう。
影のままでいなければならないと、
自分に言い聞かせながら、今日も夜の森を歩いていたのです。
そんなある晩のこと。
風の止んだ静かな森に、かすかな泣き声が響きました。
「……うえぇ……まま……どこ……?」
声のする方を見ると、木々の間に小さな灯りが見えます。
どうやら、森に迷い込んだ人間の子どものようでした。
足元のぬかるみに靴をとられ、膝を泥で汚しながら、暗闇の中で震えています。
カゲルは、そっと近づきました。
声をかけようとして、けれど言葉を持たない自分に気づき、小さくため息をつきます。
(どうしたら……こわがらせずに、助けてあげられるだろう)
しばらく悩んだあと、カゲルはふっと思いつきました。
自分の影で、道を示せばいい。
彼は子どもの足元へそっと移動し、そのかかとをかすめるようにして、影をのばします。
暗闇の中で、地面の上に黒い筋がうっすらと浮かびあがり、森の奥へと続く小径を描きました。
子どもは、ふと涙をぬぐって顔をあげました。
その黒い道筋が、なぜだか“光って見えた”のです。
不思議と怖くはありません。
むしろ、その影の動きがやさしく手招きしているように感じました。
「……こっち?」
子どもは小さな声でつぶやきながら、一歩、また一歩と歩き出しました。
カゲルは影を細く、長くのばして、先導します。
倒れかけた木の根や石の段差を避けるように、道の端をくねくねと曲がりながら、森の安全な場所を導きました。
森の動物たちが、そっとその様子を見ていました。
木の上のリスが小さくつぶやきます。
「なんだろう……あのやさしい影……」
小川のほとりのカエルも、じっとその黒い流れを見送りました。
やがて、夜明けが近づくころ。
空の端が少しずつ明るくなり、鳥たちが鳴きはじめます。
子どもは、森の出口にたどり着きました。
そこでようやく足を止め、振り返ります。
けれど、そこにはもう影はいませんでした。
朝の光に溶けて、跡形もなく消えてしまっていたのです。
それでも、なぜだか、胸の奥があたたかい。
子どもは、安心したように小さく笑いました。
「ありがとう」
その声が森に響くと、木々の影が一瞬、ふるりと揺れました。
カゲルはその声を聞きながら、木の根のかげで静かに息をつきました。
(こわがられなかった……)
心の奥に、あたたかい光がひとつ、ぽっと灯ります。
誰かの役に立てた。
それだけで、胸の奥がじんわりと満たされていきました。
形や声がなくても、そっと寄り添うことで、誰かの心を支えられるんだ。
その夜を境に、カゲルは変わりました。
森を歩くたびに、迷うもの、悲しむもの、泣いているものがいれば、影をすこしのばして、そっと導いてあげるようになりました。
光が届かぬ場所で、闇を怖がる誰かの手をそっと取るように。
森の仲間たちの間で、いつしか噂が広がります。
「最近、迷子の子がすぐ見つかるよね」
「影がやさしく道を教えてくれた、って言うんだよ」
ポンポンもパリィも、コロリも、誰もその“導きの影”がカゲルだとは知りません。
けれど、みんなが少しずつ、夜の森を怖がらなくなっていきました。
そして今日もまたまよい森の奥では、木々の影の間を、小さな黒い気配が静かに歩いています。
見えなくても、声がなくても、確かにそこにいる。
誰かの不安を包み、光の届かない場所で、やさしい導きをくれる存在。
それが、影のおばけ、カゲル。
もしも、あなたが夜の森を歩いていて、暗闇の中で小さく揺れる影を見つけたなら、
それはきっとカゲルです。
あなたの足もとでそっと揺れるその影が、道をやさしく照らすように寄り添ってくれたなら……
きっとそのとき、あなたは安心して歩き続けられるでしょう。




