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わたしの名前は

 ここは、まよい森。

 だれも近づかない、だれも見てくれない、ひっそりとした森。

 そこに、わたしはいます。

 名前は、もう思い出せません。

 ずっと昔、人間だった気がするけれど、今のわたしはおばけの子。

 とっても小さくて、すけすけで、風にまぎれてしまうほど。

 わたしの声を聞くものはいません。

 目を合わせてくれるものもいません。

 でも、それでも、わたしは呼び続けていました。

「……さみしいよう……」

 それだけが、まだ残っている、わたしの“気持ち”でした。


 むかし、ここにはたくさんの人が来ていました。

 森に遊びにくる子どもたち。

 木の実をひろうおばあちゃん。

 草花をつむ若い娘さん。

 そのころ、わたしは“こども”でした。

 笑い声を聞くだけでうれしくて、木のかげから顔をのぞかせては、こっそりとまねをして笑っていました。

 でも、あるときから人はいなくなりました。

「あの森には、おばけが出るんだって」

 そう言われて、みんな来なくなりました。

 こわがらせるつもりなんて、なかったのに。

 ただ、いっしょに遊びたかっただけなのに。


 それから、森はしずかになりました。

 音が、風に吸いこまれていくような静けさ。

 ときどき、枝が落ちて音を立てても、それすらすぐに消えてしまうほど。

 長い時間が流れていきました。

 花が咲いても、見てくれる人はいません。

 夜の星がきらめいても、笑い声は聞こえません。

 だから、わたしはつぶやき続けました。

「……さみしいよう……」


 ある夜、森を渡る風が、そっと耳もとでささやきました。

「もうすぐ、だれかが来るよ」

 風がそんなことを言うのは、ほんとうにめずらしいこと。

 わたしは驚いて、木々の枝をゆらし、葉っぱを磨いて、まるでお客さんを迎えるみたいに森をきれいにしました。

 そして、来てくれたのです。

 ふわふわの髪の、にっこり笑う女の子。

 名前は、コトリちゃん。

 わたしの声を聞いて、ほんとうに、ほんとうに来てくれた。

 うれしくて、うれしくて、涙のような光がこぼれました。

 コトリちゃんは、わたしを見ても逃げませんでした。

 目をそらすどころか、わたしの冷たい手を、ぎゅっとにぎってくれたのです。


「……いっしょに、あそんでくれる?」

 そうたずねると、コトリちゃんは大きくうなずきました。

 ふたりで森の中を歩き、霧のベッドにねころび、葉っぱでおままごとをしました。

 木々がざわめき、風が笑う。

 森じゅうが、その小さな笑い声に耳をかたむけているようでした。


 その夜、まよい森は少しだけ光ったのです。

 長い間、闇に沈んでいた森の奥に、ほんのりとあたたかな灯りがともりました。

 朝が近づくころ、コトリちゃんは家に帰る時間になりました。

 わたしはさみしい気持ちをこらえて、にっこり笑って言いました。

「ありがとう。あなたが、わたしの声をきいてくれて、うれしかった」

 本当に、それだけでよかった。

 わたしは、もうひとりじゃないと思えた。

 だから、その気持ちのまま、わたしはやわらかな光になって、森の奥へしずかに帰っていきました。

 それから、森の声は消えました。

 再び、だれもわたしを見ることはなくなりました。


 でもね、コトリちゃんは、ときどき森に来てくれたのです。

 そのたびに、森の風がやさしく揺れ、木々が小さく笑いました。

 そして、ある日。

 コトリちゃんは森の入り口で、空に向かってつぶやきました。

「……またね、“シロ”ちゃん」

 ――シロ?

 それは、コトリちゃんがくれた、新しい名前。

 まっ白なおばけ、まよい森の小さな光。

 その名前が、わたしの胸の奥に灯をともしました。

 呼ばれた瞬間、森の葉が光り、風が輪を描き、鳥たちが羽ばたきました。


 名前をもらえた。

 だれかの心に、わたしが残ることができた。

 それが、なによりもうれしかった。

 まよい森には、今も人は来ません。

 けれど、コトリちゃんだけは、時々、そっと足を運んでくれます。

 緑の木の下で、彼女は笑って言うのです。

「シロちゃん、元気? また、あそびにきたよ」

 わたしは見えない風になって、葉っぱをゆらし、返事をします。

「うん。わたしは、ここにいるよ。ちゃんと、待ってるよ」

 森の中、やさしい風が流れました。

 かつて“さみしい”と泣いていた声は、今は“ありがとう”と歌っているように響いていました。


 わたしの名前はシロ。

 まよい森の、おばけの子。

 コトリちゃんがつけてくれた、世界でいちばん、あたたかい名前をもつおばけ。

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