音を聴くもの コトモ
まよい森の東の、小さな谷間。
朝でも昼でも、そこはいつも静かで、風が通るたびに木の葉がそよそよと鳴ります。
その葉のあいだを、ふわふわと漂うおばけがいました。
名前はコトモ。
コトモは声を持たないおばけです。
けれど、森の音を聴くことが誰よりも得意でした。
木の葉のこすれる音。
枝の軋む音。
水のしたたる音。
遠くの鳥の声、風のうたう音、虫たちの羽音。
コトモはそれらをひとつひとつ拾い集め、まるで音でできた糸をつむぐように、森の中を漂いながらつないでいきます。
昼間、森の仲間たちが眠っているときも、コトモは木の陰や葉の裏をそっと動き、森の声を聞き続けていました。
だから、森のどんな小さな変化も、コトモはすぐに気づくことができるのです。
ある夜のこと。
ソラリがほたるの灯を運びながら、森の奥を照らしていました。
空気は冷たく、草の露がきらきらと光り、
どこか遠くでフクロウがひと声鳴きました。
そのとき、ソラリの耳にかすかな音が届きました。
「……ピチュッ、ピチュッ」
小鳥のような鳴き声。
でも、その夜、森に鳥の姿はありません。
ソラリは首をかしげ、音のする方へ飛んでいきました。
葉のあいだからこぼれる月明かりの下に、光の粒がふわふわと漂っているのが見えました。
「……だれ?」
ソラリが声をかけると、光の中の影がゆらゆらと揺れ、
小さな音が風のように響きました。
(私はコトモ。森の声を集めて、必要なところに届けるおばけ)
その言葉も、声ではありません。
木の葉のすれる音、雨のしずくの音、遠くの水のせせらぎ……
それらの音を組み合わせて、コトモはソラリに語りかけていたのです。
ソラリは目を丸くしました。
「音で話すおばけ……? 素敵!」
コトモは小さく光りながら、ふわりとソラリの周りを一周しました。
その夜の森は、少しざわついていました。
風が強く、道のあちこちに落ち葉が重なり、小さな水たまりができています。
コトモは森じゅうを飛び回り、あらゆる音を集めはじめました。
葉の間で風が鳴く音。
リスが枝を渡るときの足音。
木の根元で水が滴る音。
それらをひとつにまとめて、森に住む仲間たちへ届けるのです。
「ここに水たまりがあるよ」
「向こうの道はすべりやすいよ」
「小鳥の巣が落ちかけているよ」
コトモの音は、言葉ではないけれど、確かにみんなの心に届きました。
ミルがその音を聞いて空を見上げ、パリィが葉の上で羽をふるわせ、ヒューが風をやわらげながら笑います。
「ねえ、あの音、きっとコトモだね」
「今夜も森の声を届けてくれてるんだ」
仲間たちは安心し、森の奥に住むものたちも穏やかに夜を過ごしました。
コトモはそんな様子を、遠くの枝の上から見つめていました。
小さくきらめく光の体が、風に揺れています。
(声のない私でも、みんなの役に立てるなんて……うれしいな)
その思いは、音の波となって森に広がりました。
まるで森じゅうがやさしく息をしているようでした。
やがて夜が明け、東の空が少しずつ明るくなるころ。
コトモは木の葉の影へゆっくりと沈み、朝露といっしょに静かに姿を消しました。
けれどそのあとも、森の仲間たちが耳をすませば、木の葉の間から、遠くでささやく音が聞こえます。
「ピチュッ……ピチュッ……」
それはきっと、コトモが森のどこかで見守っている証。
声はなくとも、音が生きている限り、コトモの優しい心は、森の隅々まで届き続けるのです。




