音の迷子 ソノ
まよい森の夕暮れ。
空は茜から紫へとゆっくり色を変え、
木々の影が長く伸びて、森全体がひとつの息をするように沈みはじめていました。
風はやわらかく、葉のざわめきは金色の光をまとって、まるで誰かが奏でる子守歌のように響きます。
その奥で、かすかな旋律が聞こえてきました。
「……ラ、ラ、ラ……」
小さな音が木立の隙間を抜け、泉のほとりをすり抜け、夜に向かう森の中を漂っていきます。
その音の主は、ソノという小さなおばけでした。
ソノの体は半透明で、音そのもののように形を持ちません。
姿を見ようとしても、ほとんど光の粒のようにしか見えず、近づくとほんの少し空気が震える。
それがソノです。
彼女は森の音を集めるのが大好きでした。
風が枝をすり抜ける音、葉っぱがこすれ合う音、池に落ちる小さな雨のしずくの音、そして鳥たちの帰り道の羽ばたき。
それらすべてを「きれい」と感じると、ソノはその音を胸の奥にしまい込みます。
音を集めるたび、体の中に小さな光が灯り、やがてそれが幾千もの音の粒となって、彼女の体の中でチカチカと輝くのです。
けれど最近、ソノは少し困っていました。
集めすぎた音たちが胸の中で入り混じり、どれがどの音なのか、もうわからなくなってしまったのです。
「どの音がだれの声だったか……もう、わからなくなっちゃった……」
ソノは小さくため息をつきました。
すると、そのため息さえも小さな音になって、自分の中に吸い込まれていきました。
森の小道をとぼとぼ歩きながら、ソノは自分の体の中に響く音たちを聴こうとします。
けれど、それはまるで色とりどりの糸が絡まったようで、どの音も少しずつ違って、少しずつ似ていました。
「この音は……風? それともミズキの水の声?」
ソノは耳を傾けますが、答えは見つかりません。
心が少しずつ曇っていき、光も弱まっていきました。
そのとき。
ふわり、とやさしい風が吹きました。
白く柔らかな羽のようなものが、ソノのまわりを包みます。
「ソノ、大丈夫?」
声の主は、羽のおばけフワリでした。
彼女の羽は夜明けの雲のようにやわらかく、触れられると心の奥がふんわり温かくなる不思議な力を持っています。
「うん……でも、音が、ぐるぐるしてて……」
ソノは弱々しく答えました。
フワリはにっこり笑い、
そっと羽を広げてソノを包みこみます。
「迷子になった音も、ちゃんと帰る場所があるよ。それを思い出せば、きっと大丈夫。」
その声は、やさしい風鈴の音のように響きました。
ソノは少し勇気をもらい、ゆっくりと目を閉じます。
――音たち、帰る場所に帰ってごらん。
心の中でそうつぶやくと、体の奥から音がひとつ、またひとつ、外へとこぼれ出しました。
木の葉のさざめき。
水の滴る音。
遠くで聞こえるホシオが集めた星のかけらの音。
それらが次々と森の中へ帰っていきます。
どの音も、もとの場所へ戻るように、自然に流れていくのです。
森の木々は静かに揺れ、
水面にはやさしい波紋が広がり、夜の空気がどこか懐かしい音で満たされていきました。
「音って……ただ集めるだけじゃなくて、届けてあげるものなんだね」
ソノが小さくつぶやくと、胸の奥に残った最後の音、それは、彼女自身の声でした。
「私の声も、森のみんなに届けよう」
そう決めたソノは、そっと歌いはじめました。
その声は、小さな鐘の音のように澄んでいて、森の隅々まで響き渡ります。
やがて、遠くの葉っぱのこえ、パリィが「ありがとう」とささやき返しました。
その瞬間、森じゅうにハーモニーが生まれました。
風が音を運び、水がそれを映し、木々が共鳴して、小さな音楽が生まれていったのです。
ソノは微笑みながら、胸に手をあてました。
「私は、森の音を守るんだ。迷子になった音も、忘れられた音も、ちゃんとここにあるって伝えるのが、私の役目」
夜がゆっくりと深くなっていきます。
森は静まり、星の光が枝の間からこぼれ落ちました。
ソノは小さな体をふわりと浮かせ、遠くの木々のざわめきと、水のささやきを聞きながら、やさしい音たちに包まれて、静かに目を閉じました。
その夜、まよい森のどこかで、確かに“音の夢”が生まれたのです。




