やわらかな羽 フワリ
まよい森の朝。
夜の名残りがまだ木々の影に溶け残り、霧がやわらかく枝の間を漂っていました。
光は淡く、空の端にかすかな金色がのぞいています。
鳥たちもまだ眠りの中、風さえも息をひそめているようでした。
その静けさのなかを、ふわり、と漂う影がありました。
羽のように透き通った小さな体、おばけのフワリです。
フワリは、森の朝を整えるおばけでした。
夜のあいだに散らばった夢やささやきを集め、朝の光がまっすぐ差し込めるように、空気を整えるのが彼女の役目です。
「今日も森のみんなを起こさないように……そっと光を運ぼう」
フワリの声は、風と同じくらいかすかで、けれど確かに森に届く、やさしい音でした。
彼女の羽が霧の中をなでると、葉の上の露がきらりと震え、木の根元に落ちた影がゆっくり目を覚まします。
「おはよう、森」
フワリは小さくつぶやきながら、木の葉一枚一枚に指先を通すように、羽をゆっくりと動かしました。
触れられた葉は、ほんの少し色を帯びていきます。
緑が深くなり、朝の光を受けて淡く輝くのです。
まるで、森が静かに笑っているみたいでした。
小さな池のそばにたどり着くと、水の精のおばけミズキが、まだ眠たそうに波を揺らしていました。
フワリは羽の先でそっと水面を撫でます。
すると、ミズキの涙の粒が光を集め、星の残り香のようにきらめきながら跳ねました。
「おはよう、ミズキ。今日もきれいだね」
フワリの声に、ミズキは水の波で小さく応えます。
「おはよう……フワリの羽が触れると、朝がやさしくなるね」
フワリは照れくさそうに微笑みました。
けれど、その微笑みさえ霧のように淡く、触れようとすると消えてしまいそうです。
そこへ、葉っぱのこえ、パリィがひらひらとやってきました。
葉の擦れる音で挨拶をしながら、
「フワリ、今日もやさしくしてくれてありがとう」
とささやきます。
フワリは首をかしげ、羽音で笑いました。
その音は言葉ではないけれど、森の仲間たちはそれだけで安心します。
笑い声のような羽音が響くたび、木々の葉が少しずつそよぎ、森の一日がゆっくりと始まっていくのです。
けれど、フワリには小さな悩みがありました。
「私は、見てもらえないことが多い……」
彼女の体はあまりに透明で、霧と混じるとほとんど見えなくなってしまうのです。
人間はもちろん、森の仲間たちにも姿を見つけられないことがよくありました。
誰も気づかずに森が目覚め、昼が来る。
それが少しだけ、寂しいときもありました。
けれどフワリは、心の中でそっとつぶやきます。
「でも……見えなくても、感じてもらえるなら、それでいい」
森の風の音を整え、葉のこすれるリズムをやわらげ、鳥たちの声が響きやすいように空気を澄ませる。
それがフワリの仕事であり、誇りでした。
そのとき、霧の向こうから、静かなささやきが届きます。
「……朝のこえを運ぶよ」
声の主は、言の葉のおばけコソラ。
夜の夢の残りを集めて、朝へと引き継ぐ存在です。
フワリは羽を伸ばし、そっと近づきました。
「コソラ、おはよう」
ふたりは、互いの存在を確かめるようにそっと触れ合います。
その瞬間、コソラのささやきがフワリの羽に溶け込み、音と光が混ざり合って、森の中へと広がっていきました。
それはまるで、朝の霧が言葉を持って流れていくようでした。
木々の枝がささやき、小さな草花が風に揺れ、森全体がひとつのやさしい旋律を奏ではじめます。
フワリはその中で、そっと思いました。
「私たち、みんな小さな光や声を持っているんだ。それが集まって、森を守る力になるんだね」
その瞬間、森はほんの少し明るくなりました。
霧が透けて、木漏れ日が地面に落ち、鳥たちの声が一斉に響きます。
フワリは満足そうに羽を広げました。
朝の光を受けて、羽の縁が淡く輝きます。
そして次の瞬間、彼女は霧の中に溶け込んでいきました。
森の仲間たちはまだ気づいていません。
今日もまた、フワリが見えないところで、静かに森を守ってくれていることを。
けれど、葉のそよぎや風のぬくもりの中に、その羽音は確かに残っていました。
それは、森の朝が始まる合図。
まよい森の新しい一日が、フワリのやさしい羽ばたきとともに、静かに動き出したのです。




