森の守り人 シズクおばけ
まよい森のいちばん古い場所。
苔むした岩がごつごつと重なり、幹の太い木々が天を覆うように並んでいる。
そこに、シズクおばけはひっそりと暮らしていました。
その姿は、朝露のしずくのように透明。
光を受けるときらりと輝き、ひとつひとつの滴が、森の呼吸とともに小さく揺れます。
シズクおばけの体はとても小さいけれど、その存在は確かで、静かな温もりを持っていました。
森の草花の葉の上や、木の根元の影の中。そこに漂いながら、彼はいつも森の音に耳を澄ませていたのです。
シズクおばけの役目は、森の声を聞くこと。
風のささやき。
鳥のさえずり。
木々の葉ずれの音。
それらはただの自然の音ではなく、森の心の声でした。
風が優しく吹くときは、森が笑っている。
木々がざわめくときは、少し不安を感じている。
「森が喜んでいるのか、悲しんでいるのか、ぼくに教えて」
シズクおばけは、光を揺らしてそうつぶやきます。
彼にとって、森の声を聞くことは、生きることそのものでした。
ある日、まよい森に小さな嵐が訪れました。
風が枝を折り、葉をちぎり、雨が苔の上を叩きます。
空の怒りのような雷が鳴り響き、森は怯えていました。
小鳥たちは巣の奥で身を寄せ合い、リスたちは濡れた木の洞に隠れます。
シズクおばけはその声を聞きながら、胸の中に冷たい痛みを感じました。
森が泣いている。そう思ったのです。
彼は、そっと涙をこぼしました。
透明な涙は光をまとい、風に溶けて舞い、雨とともに森じゅうに降り注ぎます。
折れそうな花のつぼみにふれた光は、やわらかく包み込むように輝きました。
怯える小動物たちの上に落ちたしずくは、体を温めるように光りました。
「大丈夫、もう少しだからね」
シズクおばけは声を持たないけれど、光を通して森の命たちに語りかけます。
それは、嵐の夜を支える静かな祈りでした。
やがて、嵐は過ぎ去りました。
森はしんと静まり返り、雨上がりの空気が冷たく澄み渡っています。
苔の上には小さな水たまりができ、木の葉の先には光る雫が並んでいました。
森全体が、濡れた緑の衣をまとったように輝いています。
「見てごらん、森はまた笑顔になったよ」
シズクおばけは光を揺らしてそうつぶやきました。
その光は、朝の光に溶けるようにきらめきながら、ゆっくりと木々の間に消えていきます。
けれど、誰もその声を聞き取ることはできません。
森の仲間たちも、ただ雨上がりのきらめきとして彼の存在を感じるだけ。
ポンポンは「今日は光がやわらかいね」と笑い、カゲルは影の奥から静かに光を見つめ、チビリンはぴょんと跳ねながら光の粒を追いかけました。
誰もシズクおばけの名を知らなくても、それでいいのです。
森の声に応えることが、彼の生きる理由だから。
そんなある夜。
森にひとりの小さな子どもが迷い込んできました。
雨上がりの道はぬかるみ、足元は滑りやすく、あたりはまだ霧に包まれています。
子どもは心細そうに泣きながら歩いていました。
シズクおばけは、その涙の音を聞きつけました。
そっと光を集め、細い道に沿って漂わせます。
しずくの光がふわりと浮かび、やわらかな明かりの帯となって子どもの足元を照らしました。
「……こっちに行けばいいの?」
子どもは光を追うように、一歩、また一歩と進みます。
足元の石や根っこに気をつけながら、光を頼りに森の奥を抜けていきました。
そして、木々の切れ間から月明かりが見えたとき――。
光はふっと消え、子どもは森の出口に立っていました。
「……ありがとう」
誰にともなくそうつぶやき、子どもは森を振り返ります。
けれど、もうそこには光の粒も、声もありません。
シズクおばけは、再び森の奥へと溶けていきました。
彼は誰かに感謝されなくてもいいのです。
森が息づき、花が咲き、鳥が歌う。
そのすべてが、彼の存在の証。
「ぼくは森の涙であり、森の笑顔でもある」
そう思いながら、シズクおばけはまたひとつ、透明なしずくをこぼしました。
それは木の葉を伝って落ち、朝露となって輝きます。
もしあなたが、朝の光の中で小さな雫を見て「きれいだな」と感じたなら、それはきっと、森の守り人シズクおばけの涙なのです。
見えなくても、聞こえなくても、彼は今日も森のどこかで、静かにその調和を守っています。
光と水のように、透明な心のままで。




